今回はカルヴァンとイギリスの宗教改革・対抗宗教改革を扱います。
前回からやっている宗教改革解説の後編となっています。
前回解説したのはルターの宗教改革についてなので、こちらも合わせて読むと理解が深まると思います。
この講座の難易度は★★★☆☆です。
スイスの宗教改革
ツヴィングリの宗教改革
ルターの『九十五カ条の論題』がきっかけとなって起こった宗教改革の波はスイスにもきています。
ルターと同じく贖宥状販売に対して批判的だったフルドリッヒ=ツヴィングリは1523年にスイス北部のチューリヒで宗教改革運動を始めます。
しかし、あまりに急進的な改革を進めたことによってカッペル戦争と呼ばれる宗教戦争が勃発してしまい、ツヴィングリはこの戦いで戦死してしまいました。
カルヴァンの宗教改革
フランス出身の神学者ジャン=カルヴァンは、ルターの宗教改革を支持していましたが、プロテスタントに対する弾圧が強まったことで、祖国フランスを亡命することになります。
亡命生活の最中の1536年、カルヴァンは『キリスト教綱要』を出版して名を上げます。
そして1541年にはスイスのジュネーブにおいて市民から請われたこともあり、本格的な宗教改革・神権政治を始めたのです。
このカルヴァンの指導は20年以上にわたって続き、カルヴァンは市民達に厳しい倹約と勤労を求めました。
カルヴァン派の特徴
カルヴァン派には、大きく次の2つの特徴があります。
予定説
カルヴァンの思想で最も特徴的なのが、予定説という考え方でした。
カトリックが善行や徳を積むことで救済されると考えていた一方で、カルヴァンは人間の救済は神によって予め定められている(予定)と考えたのです。
この考え方をさらに発展させて、人間は神から与えられた職業(天職)に熱心に取り組まなければならないという職業召命観という考え方もあります。
この職業召命観に基づいて市民には倹約と禁欲的勤労を求め、富の蓄財を認めます。
そのため、カルヴァンの考え方(カルヴィニズム)は商工業者などの新興市民層から強い支持を得たわけです。
社会学者・経済学者のマックス=ヴェーバーはこの予定説の影響を著書『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』において「近代資本主義の形成において大きな役割を果たした」と分析しています。
そして、それぞれの国で強い勢力となったカルヴァン派はそれぞれ以下のように呼ばれていました。
- ピューリタン(イギリス)
- ユグノー(フランス)
- ゴイセン(オランダ)
どれも世界史の授業で頻繁に聞くことのある用語です。
これらのワードが出てきたらカルヴァン派のことだと分かるようにしておきましょうね。
福音主義(聖書主義)
ルター派においても聖書中心主義という言葉が出てきましたが、それと同じような意味ではあります。
しかし、カルヴァンの福音主義(聖書主義)は、それをより突き詰めたもので、その結果として予定説のような考え方に辿り着いたわけです。
カルヴァンの宗教改革年表
それでは、カルヴァンの宗教改革について年表でまとめておきましょう。
1523年 | ツヴィングリがチューリヒで宗教改革開始 |
1536年 | カルヴァンが『キリスト教綱要』出版 |
1541年 | カルヴァンがジュネーヴで宗教改革開始 |
イギリスの宗教改革
ヘンリ8世の離婚問題
(※かなり細かいところを解説しているので、読んだ方が理解は深まりますが、難しい場合は離婚問題で教皇と対立した位の認識でもOKです。)
バラ戦争に勝利してヨーク朝を倒し、王位を手にしたヘンリ7世から始まるテューダー朝は、初代王ヘンリ7世の息子ヘンリ8世が王位についた時代でもまだ黎明期の最中にありました。
ヘンリ8世は世継ぎとなる男の子を渇望していましたが、王妃であったキャサリンとの間には男の子が生まれませんでした。
王妃であったキャサリンは、スペイン国王フェルナンド5世と女王イサベル1世の娘であり、神聖ローマ皇帝カール5世の叔母にあたる人でもあります。
そんなキャサリンは元々、ヘンリ7世がスペインと友好関係を結ぶために政略結婚させたヘンリ8世の兄アーサーの妻でした。
しかし、アーサーが急逝してしまったため、ローマ教皇から特別の赦しを得てヘンリ7世は、アーサーの弟のヘンリ8世とキャサリンを再婚させたのでした。
当時、ヘンリ8世には愛人が複数人おり、侍女であったメアリー=ブーリンとも愛人関係にありました。
ヘンリ8世はメアリー=ブーリンの姉妹であったアン=ブーリンとも愛人関係を持とうとしますが、アンはこれを拒否し、王妃の座を要求します。
そこで、1527年、ヘンリ8世はキャサリンとの離婚を考えますが、元々教皇の特別の赦しで結婚したキャサリンとの結婚を反故にすることは、スペインや教皇との対立を招きました。
今の一連の流れを文章だけで読んで分かった人も少ないと思うので、下の図解を見て確認すると少し理解しやすくなるかもしれません。
複雑な人間関係ですので、無理に理解する必要はありませんが、分かれば因果関係の理解がしやすくなります。
イギリス国教会の設立
離婚問題を機に教皇と対立したヘンリ8世は、1534年に国王至上法(首長法)を発布し、イギリス国教会が成立します。
そして、自身がイギリス国教会の首長であることを宣言したことで、教皇とは絶縁することになります。
これがイギリスの宗教改革の始まりであり、イギリスの宗教改革は政治的なところによるものが大きかったことが分かりますね。
イギリス国教会の確立
ヘンリ8世の後を継いだエドワード6世は、1549年から国教会の新教(プロテスタント)化を進めていきます。
しかし、エドワード6世の後に女王の座に就いたメアリ1世*¹は、1555年にカトリックを復活させ、プロテスタントを迫害します。
その後、メアリ1世の後に女王の座に就いたエリザベス1世が1559年に統一法を制定・発布し、再びイギリス国教会の優位が確立します。
指導者が変わるたびにコロコロ方針が変わってややこしいですが、流れで覚えていきましょう。
ちなみに、ヘンリ8世の後を継いだこの3人は全員ヘンリ8世の子供ですが、それぞれ母親は違いました(異母兄妹)。
- エドワード6世…3番目の妻ジェーンとの子供
- メアリ1世…最初の妻キャサリンとの子供
- エリザベス1世…2番目の妻アンとの子供
*¹メアリ1世は後のスペイン王フェリペ2世と結婚しています。
イギリスの宗教改革年表
それでは、イギリスの宗教改革について年表でまとめていきましょう。
1527年 | ヘンリ8世が離婚問題で教皇と対立 |
1534年 | 国王至上法(首長法)発布 →イギリス国教会成立 |
1549年 | エドワード6世が国教会の新教化を進める |
1555年 | メアリ1世がカトリックを復活させる →新教徒を迫害 |
1559年 | エリザベス1世が統一法を制定・発布 →イギリス国教会の優位が確立 |
対抗宗教改革
宗教改革によってプロテスタントの勢力が増す一方で、旧教(カトリック)側でも改革を求める声が次第に大きくなっていきます。
そこで、1545年に神聖ローマ皇帝カール5世が要請し、教皇パウルス3世が招集してトリエント公会議が開かれて対抗宗教改革(~1563年)が始まったわけです。
また、宗教改革で落ちた教皇の権威を回復するためにトリエント公会議の前の1534年にイグナティウス=ロヨラやフランシスコ=ザビエルらが中心となってイエズス会を創設します。
イエズス会は対外的な布教活動を積極的に行いました。
ザビエルが日本に来て布教活動を行ったのがその代表的な例でしょう。
このイエズス会は1540年には教皇パウルス3世から正式に承認されます。
1534年 | イエズス会創設 →ロヨラやザビエルが中心メンバー |
1540年 | イエズス会が教皇に承認される |
1545年 | トリエント公会議(~63年) →要請はカール5世・召集はパウルス3世 |
まとめ
今回はそれぞれの宗教改革について年表でまとめたので、ここでは各派の違いについてまとめて宗教改革編の解説を締めたいと思います。
- カトリック
→聖書よりも教皇重視(教皇至上主義・教皇無謬説*¹)
→善行によって救済される(行為義認) - ルター派(プロテスタント)
→教皇よりも聖書重視(聖書中心主義)
→信仰によって救済される(信仰義認説) - カルヴァン派(プロテスタント)
→ルター派よりも徹底した聖書主義(福音主義)
→救済は予定されている(予定説)
→職業召命観に基づく倹約と禁欲的勤労・富の蓄財を推奨 - イギリス国教会
→ローマ教皇からは独立
→教義ではなく政治的な分裂のため新旧両方の特徴がある
*¹教皇無謬説…文字通り、教皇の言ったことは正しく間違いはないという教義
学習が終わったらこちらの問題で復習をしてみると更に学習効率UPですよ!