イギリスの市民革命①|ピューリタン革命を解説!【世界史】

イギリスの市民革命① ピューリタン革命 解説

今回からイギリスの市民革命について2回に分けてまとめていきたいと思います。

まずはピューリタン革命とその少し前の政治史を見ていきましょう!

Homura
Homura

この講座の難易度は★★★☆☆です。

ステュアート朝の専制政治

ジェームズ1世の治世

テューダー朝のエリザベス1世は生涯独身で後継となる嫡子がいませんでした。

そこで、エリザベス1世の死後、1603年にスコットランド王であったジェームズ6世がイングランド王ジェームズ1世として即位したことで、ステュアート朝が成立し、イギリスとスコットランドの同君連合*¹が形成されます。

ジェームズ1世は王権神授説おうけんしんじゅせつ*²を唱え、専制政治を敷いたことで議会と対立します*³。

また、国教を強制し、カルヴァン派であったピューリタン(清教徒)の弾圧も強めます。

それによってピューリタンの一団が迫害から逃れるためにメイフラワー号に乗りアメリカ大陸へと渡っていきます。

彼らはピルグリム=ファーザーズ(巡礼始祖)と呼ばれ、北アメリカ北東部発展の基礎を作りました。

これについては、以下の記事でも解説しましたね。


*¹同君連合…複数の国における君主が同一の体制のことをいう。
イギリスとスコットランドの同君連合は君主は共通でしたが、政治体制や議会は異なりました。

*²国王の権利は神から与えられた神聖不可侵なもので、反抗は許されないという考え方。
絶対王政を支える理論的な根拠となった。

*³1618年から始まった三十年戦争に参戦しようとした際も、議会の強い反対によって戦費を調達できませんでした。

チャールズ1世の治世

1625年、ジェームズ1世が崩御したため、息子であるチャールズ1世が即位します。

チャールズ1世はジェームズ1世の絶対方針の方針を維持し、専制政治を続けます。

1628年にはスペインと戦争するための戦費調達を目的に課税の強化を実施しようとしましたが、議会はこれに反対し、権利の請願を提出します。

権利の請願の内容は主に以下の3つです。

  • 議会の同意がない課税の禁止
  • 不当な逮捕の禁止
  • その他国民の基本的権利の保障

チャールズ1世は最初こそ、この請願を受け入れる姿勢を示していましたが、翌年の1629年には議会を解散し、無議会政治を始めます。

この無議会政治の期間中の1634年に船舶税の施行をはじめとした課税の強化や国教の強制を進めましたが、これが原因となって1639年にはスコットランドで反乱が起こってしまいます。

チャールズ1世は、反乱の鎮圧のために更なる課税をしようと11年ぶりの議会を1640年に開きましたが、議会の強い反対によってわずか3週間ほどで解散されます(短期議会)。

その後、スコットランドの反乱に対して国王軍が敗北し財政難に陥ったため、チャールズ1世は再び議会を召集しなくてはならなくなったのです(長期議会)。

ピューリタン革命

これからピューリタン革命についてまとめていきますが、その前に以下の2点を押さえておいてください。

  • 武力闘争による革命だった
  • 外国勢力の干渉がなかった

ピューリタン革命は王党派と議会派の内乱から始まる武力闘争による革命でした。

後に起こる名誉革命は無血革命だったため、これとの対比で注意しておきましょう。

もう一つはピューリタン革命は外国の干渉なく進んだという点です。

以前に解説したフランス革命の際などにも外国勢力の介入がありましたが、ピューリタン革命ではそのような介入がありませんでした。

理由としては、三十年戦争をはじめとした17世紀の危機によって干渉するほどの余力が各国に残っていなかったことが大きいです。

王党派と議会派

当時のイギリスでは大きく分けて以下の2つの派閥に分かれていました。

  • 王党派
    →国王を支持
  • 議会派
    →国王に反発
    →独立派などの更に細かい派閥がある

王党派はチャールズ1世を支持する派閥であり国教徒が多く、議会派はチャールズ1世に反発している派閥でカルヴァン派(ピューリタン)が多かったという特徴があります。

また、議会派は考え方の違いから更に細かく分けて主に次の3つの派閥に分かれていくことになります。

  • 長老派
    →国王との和解・立憲君主制を目指す穏健派
     貴族や大商人が主な支持層
  • 独立派
    →各教会の独立・共和政を主張
     商工業者・中産階級が主な支持層
  • 水平派(平等派)
    →平等な社会体制・共和政を求める急進派
     貧農や小商人等の小市民が主な支持層

内乱・ピューリタン革命の始まり

1642年、王党派がノッティンガムで*¹で挙兵したことで内乱が始まります。

これがピューリタン革命の始まりとなったわけです*²。

当初は王党派が戦いを優勢に進めていましたが、1644年のマーストンムーアの戦いを契機に戦況が議会派優勢に傾き、1645年のネーズビーの戦いによって国王軍の敗北が決定的になり、チャールズ1世も捕らえられます。

この内乱において、独立派だったクロムウェル鉄騎隊を組織し、議会派の中心となって戦い、頭角を現していきます。

クロムウェルの肖像画
クロムウェルの肖像画(ロバート・ウォーカー画)(1649年)

*¹このノッティンガムにはロビン・フッド伝説で有名なシャーウッドの森がこの近くにあります。

*²1639年や1640年がピューリタン革命の始まりだとする場合もあります。

共和政への移行

内乱の中で軍事力を背景に力を強めたクロムウェルを中心とする独立派は、1648年に議会の多数派であった長老派を追放します。

そして1649年には議会の臨時法廷で捕らえたチャールズ1世を裁判にかけ、処刑したのです。

これによってイギリスは共和政(コモンウェルス)へと移行します。

クロムウェルの対外政策

クロムウェルはまず、カトリック教徒が多く反議会派の拠点となっていたアイルランドやスコットランドへの侵攻・征服を1649年に始めます。

これによって、アイルランドを植民地化することに成功しました。

また、17世紀初頭にオランダ東インド会社を設立し、1648年にはウェストファリア条約によって正式な独立を認められたオランダは海上進出を積極的に進めていきます。

イギリスもオランダの独立を支援するなどの良好な関係を築いていましたが、こうした海上進出によって次第に貿易の主導権を巡る対立が深まっていきました。

クロムウェルはオランダの海上進出に対抗するために1651年に航海法*¹を制定します。

しかし、これが原因となって翌年の1652年には第1次イギリス=オランダ戦争(英蘭戦争)が始まってしまいます。

結果はイギリスの勝利に終わり、1654年にウェストミンスター条約で講和し、イギリス本国と植民地における貿易利益の独占をオランダに認めさせました。


*¹イギリスでの貿易をイギリス船または産出国に限定し、オランダの中継貿易を妨害することを目的にした保護貿易的な法律。

クロムウェルの独裁と死去

1653年に護国卿ごこくきょうの地位となったクロムウェルは同年のランプ議会*¹の解散をはじめとした独裁的な政治を行うようになります。

しかし、1658年にクロムウェルはインフルエンザによって亡くなってしまいました。

後を継いだ息子のリチャードは議会を召集しましたが上手く調停をすることができず、1660年の王政復古によって共和政・ピューリタン革命は終了することになります。


*¹長老派が追放された後に残った議員によって構成された議会。
このランプ議会の解散によって、1640年から始まった長期議会は解散となりました。
ちなみに、ここでいうランプは灯り(lamp)のことではなく、残党(Rump)のことです。

まとめ

それでは、今回の内容を年表でおさらいしていきましょう!

1603年ジェームズ1世が即位(ステュアート朝)
→イギリスとスコットランドの同君連合形成
→王権神授説を唱え、専制政治を行う
1618年三十年戦争(~48)
1625年チャールズ1世が即位
→専制政治の方針を維持
1628年権利の請願
→議会の同意ない課税や不当逮捕の禁止を要求
1629年議会を解散させ、無議会政治を開始(~40)
1634年船舶税の施行
1639年スコットランドの反乱
→チャールズ1世の国教強制に反発
1640年短期議会
→議会の反対にあってすぐに解散
長期議会(~53)
1642年ピューリタン革命(~60)
→王党派の挙兵によって内乱が始まる
1644年マーストンムーアの戦い
→戦況が議会派優勢になる
1645年ネーズビーの戦い
→国王軍の敗北が決定的になる
 チャールズ1世も捕らえられる
1648年独立派が長老派を追放
1649年チャールズ1世を処刑
共和政(コモンウェルス)へ移行
アイルランド・スコットランドへ侵攻
→アイルランドを植民地化
1651年航海法を制定
→オランダの海上進出への対抗が目的
1652年第1次イギリス=オランダ戦争(~54)
1653年クロムウェルが護国卿に就任
→クロムウェルの独裁(~58)
1654年ウェストミンスター条約
→第1次イギリス=オランダ戦争の講和条約
→イギリスの勝利で戦争は終結
1658年クロムウェルが死去
1660年王政復古
→ピューリタン革命の終結

王政復古についてはこちらの記事にまとめてあります。

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