今回は、普通の授業では各時代ごとに見ていく蝦夷地・北海道の歴史を一気に見ていきたいと思います。
授業でやるように各時代とリンクさせて蝦夷地や北海道の歴史を見ていくだけでなく、蝦夷地と北海道の歴史に注目して整理していくと理解度がより深まると思うので是非最後まで見てくださいね!
この講座の難易度は★★★☆☆です。
蝦夷地とアイヌに関する予備知識
日本史の教科書や授業でやるような蝦夷地と北海道の歴史を見ていく前に、蝦夷地とアイヌに関する予備知識を簡単に解説していきたいと思います。
分かっているようで分かっていない蝦夷地の定義やアイヌ民族などについてしっかりと理解をしてから勉強することで学習効果大幅アップ間違い無しです!
蝦夷地の定義
皆さんは蝦夷地が具体的にどこからどこまでの地域を指す言葉か知っていますか?
下の図のような今の北海道本島だけが蝦夷地だと思っている人も多いと思います。
この認識は間違いではないのですが、蝦夷地は北海道本島に加えて樺太(サハリン)島や千島列島などのアイヌ民族が住んでいた周辺の島々を合わせた呼称であるということをここで覚えておきましょう!
また、奈良時代などにおける蝦夷征討で対象となっているのは主に東北地方の方であることも注意してください。
アイヌ民族について
アイヌ民族は現在の北海道周辺を居住圏としていた先住民族であり、独自の言語*¹や文化を持つ狩猟民族でした。
イメージとしては縄文時代の生活様式に近い感じです。
注意点として、時代によっては朝廷より東北に住んでいて朝廷への帰属を拒んでいた人々を日本本州に住んでいた大和民族(和人)から見て蝦夷や土人などの呼称で呼ぶこともありますが、これが=アイヌ民族を指すかどうかは定かではありません。
しかし、今回の講座では日本史で扱われる蝦夷征討などについても解説するので、その点を予め理解しておいてくださいね。
*¹ちなみに、アイヌとはアイヌ語で「人間」を意味する言葉であり、日本本州に住んでいた大和民族に対する自民族の呼称として江戸時代の頃から使われ始めたと言われています。
蝦夷地・北海道の歴史
まずは今回の講座で扱う蝦夷地・北海道の歴史を年表で一通り見ていきましょう。
647年 | 渟足柵を築く |
648年 | 磐舟柵を築く |
658年 | 阿倍比羅夫を東北へ派遣 |
708年 | 出羽柵を築く |
712年 | 出羽国設置 |
724年 | 陸奥国に多賀城を築く →蝦夷の反乱が理由 |
780年 | 伊治呰麻呂の乱 →反乱を起こし、多賀城を陥落させる |
788年 | 第1回蝦夷征討…征討大使は紀古佐美 →翌年、蝦夷の族長阿弖流為らに大敗 |
791年 | 第2回蝦夷征討…征討大使は大伴弟麻呂 →戦果については詳細不明 |
797年 | 第3回蝦夷征討…征夷大将軍は坂上田村麻呂 |
802年 | 阿弖流為が降伏 →陸奥国に胆沢城を築く |
803年 | 志波城を築く |
811年 | 征夷将軍文屋綿麻呂が蝦夷平定 |
1457年 | コシャマインの戦い →蠣崎氏(後の松前氏)が鎮圧 |
1604年 | 松前氏、家康からアイヌとの交易独占権を認可 →商場知行制→場所請負制度 |
1669年 | シャクシャインの戦い →商場知行制に不満を持ったアイヌの反乱 →アイヌ側が敗北 |
1789年 | クナシリ・メナシの戦い →アイヌ側が敗北(アイヌの最後の蜂起) →首長のイコトイが蜂起した若者を説得 |
1799年 | 幕府、東蝦夷地を直轄(場所請負制度廃止) |
1807年 | 幕府、全蝦夷地を直轄(松前藩は奥州へ) |
1821年 | 幕府、松前氏に蝦夷地を返す |
1855年 | 幕府、東西の蝦夷地を再び直轄 |
1869年 | 開拓使設置、蝦夷地を北海道と改称 →アイヌ民族の同化政策開始 |
1874年 | 屯田兵制度を開始 →1904年に廃止 |
1876年 | 札幌農学校が開校 →初代教頭にクラークが就任 |
1881年 | 開拓使官有物払下げ事件 →北海道開拓長官の黒田清隆が官有物を 五代友厚に払い下げしようとしたが、 世論の反対にあって取りやめた事件 |
1882年 | 開拓使廃止 |
1889年 | 北海道旧土人保護法制定 →同化政策で困窮したアイヌの人々の救済が目的 →しかし、日本語教育や農業の強制が加速 |
1997年 | アイヌ文化振興法成立 →アイヌの人々が尊重された社会の実現が目的 →北海道旧土人保護法の廃止 |
以上の内容を①蝦夷平定、②江戸時代の蝦夷地、③近現代の北海道の3つに大別してもう少し詳しく見ていきたいと思います。
蝦夷平定
ここで扱う範囲の年表をもう一度おさらいしていきましょう。
647年 | 渟足柵を築く |
648年 | 磐舟柵を築く |
658年 | 阿倍比羅夫を東北へ派遣 |
708年 | 出羽柵を築く |
712年 | 出羽国設置 |
724年 | 陸奥国に多賀城を築く →蝦夷の反乱が理由 |
780年 | 伊治呰麻呂の乱 →反乱を起こし、多賀城を陥落させる |
788年 | 第1回蝦夷征討…征討大使は紀古佐美 →翌年、蝦夷の族長阿弖流為らに大敗 |
791年 | 第2回蝦夷征討…征討大使は大伴弟麻呂 →戦果については詳細不明 |
797年 | 第3回蝦夷征討…征夷大将軍は坂上田村麻呂 |
802年 | 阿弖流為が降伏 →陸奥国に胆沢城を築く |
803年 | 志波城を築く |
811年 | 征夷将軍文屋綿麻呂が蝦夷平定 |
7世紀前後頃から朝廷は、その勢力圏が及んでいなかった東北への進出を目指し、本格的な東北経営に乗り出していきます。
その足掛かりとして設置されたのが渟足柵・磐舟柵・出羽柵*¹などの城柵であり、その後出羽国の設置や多賀城の築城などに繋がっていきます。
しかし、こうした朝廷の勢力拡大に対して当然蝦夷の人々も反発します。
特に大きな蝦夷の反乱の一つが伊治呰麻呂の乱であり、蝦夷の族長であった伊治呰麻呂を中心とする反乱勢力により多賀城が陥落させられたことで、朝廷の東北経営は大きな打撃を受けることになります。
これを契機として、朝廷は本格的に蝦夷の征討へと動くことになり、大きく分けて3回に及ぶ蝦夷征討を行います。
この蝦夷征討の最高指揮官として任命されたのが、征討大使、そして桓武天皇によって794年に設置された令外官*²である征夷大将軍です。
この征夷大将軍という官職は後に幕府(武家政権)の最高役職の名前にもなりますが、元々の由来は蝦夷を征討する将軍→征夷大将軍だったわけですね。
蝦夷征討は蝦夷の族長である阿弖流為らの強い抵抗によって難航しましたが、第3回蝦夷征討で征夷大将軍に任命された坂上田村麻呂によって阿弖流為が降伏したことで大きく進展し、811年に文屋綿麻呂によって蝦夷平定がなされたことで、朝廷の東北進出は一区切りとなります。
大まかな蝦夷平定の流れ
朝廷の東北進出
↓蝦夷の反発
伊治呰麻呂の乱
↓朝廷が蝦夷征討に動く
蝦夷征討
↓阿弖流為らの抵抗
坂上田村麻呂が征夷大将軍になる
↓
阿弖流為が降伏
↓
文屋綿麻呂によって蝦夷平定
*¹渟足柵・磐舟柵は現在の新潟県、出羽柵は現在の山形県(後に秋田県)に築かれたといわれています。
*²令外官…令の規定にない新しい朝廷の官職。征夷大将軍以外の代表的な令外官としては勘解由使や検非違使、摂政や関白などが挙げられます。
江戸時代の蝦夷地
次は江戸時代の蝦夷地についてを見ていきましょう!
まずはここで扱う範囲の年表をもう一度確認していきます。
1457年 | コシャマインの戦い →蠣崎氏(後の松前氏)が鎮圧 |
1604年 | 松前氏、家康からアイヌとの交易独占権を認可 →商場知行制→場所請負制度 |
1669年 | シャクシャインの戦い →商場知行制に不満を持ったアイヌの反乱 →アイヌ側が敗北 |
1789年 | クナシリ・メナシの戦い →アイヌ側が敗北(アイヌの最後の蜂起) →首長のイコトイが蜂起した若者を説得 |
1799年 | 幕府、東蝦夷地を直轄(場所請負制度廃止) |
1807年 | 幕府、全蝦夷地を直轄(松前藩は奥州へ) |
1821年 | 幕府、松前氏に蝦夷地を返す |
1855年 | 幕府、東西の蝦夷地を再び直轄 |
江戸時代の蝦夷地で覚えておきたいのは、3つの戦いと商場知行制・場所請負制度についてです。
3つの戦いについては年表にある通りなので、ここでは商場知行制と場所請負制度について深堀りしていきます。
商場知行制は家康からアイヌとの交易独占権を認可された松前藩が、アイヌとの交易権(知行)を家臣らに与えて、家臣達は商場でアイヌと交易を行うというものです。
松前藩はアイヌの人々に貨幣という概念がなく物々交換をしていたことをいいことに、米や酒と鮭や鰊などの交換比率をいじることで大きな利益を得ていたのです。
更に松前藩は現在の北海道南部の土地を和人地とし、それ以外を蝦夷地としましたが、徐々に商場以外でアイヌが交易するのを厳しく取り締まるようになっていきました。
これに対して不満を持ったアイヌが起こした反乱がシャクシャインの戦いというわけです。
そして場所請負制度は知行を与えられた家臣が交易を和人商人に委託して、運上金を納入させる一方で和人商人はアイヌの人々を強制的に働かせるというもので、商場知行制を更にアイヌの人々にとって不利にしたようなものです。
こうした松前藩によるアイヌへの不平等な交易・扱いとそれに対するアイヌの反発が江戸時代の蝦夷地の大筋です。
近現代の北海道
最後は近現代の北海道を見ていきます。
まずは例によってここで扱う範囲の年表を確認していきましょう。
1869年 | 開拓使設置、蝦夷地を北海道と改称 →アイヌ民族の同化政策開始 |
1874年 | 屯田兵制度*¹を開始 →1904年に廃止 |
1876年 | 札幌農学校が開校 →初代教頭にクラークが就任 |
1881年 | 開拓使官有物払下げ事件 →北海道開拓長官の黒田清隆が官有物を 五代友厚に払い下げしようとしたが、 世論の反対にあって取りやめた事件 |
1882年 | 開拓使廃止 |
1889年 | 北海道旧土人保護法制定 →同化政策で困窮したアイヌの人々の救済が目的 →しかし、日本語教育や農業の強制が加速 |
1997年 | アイヌ文化振興法成立 →アイヌの人々が尊重された社会の実現が目的 →北海道旧土人保護法の廃止 |
1869年、開拓使の設置に伴って蝦夷地は北海道へと改称されます。
そしてこれと同時期にアイヌの人々に対する同化政策が始まります。
同化政策とは、アイヌの人々に対して日本語教育を強制したり、アイヌの伝統的な狩猟方法を禁止したりするなどのいわゆるアイヌの人々の日本人化を進めるというものです。
第二次世界大戦下での朝鮮や台湾などに対する同化政策などをはじめとして、こうした同化政策は効率的に植民地を統制するために歴史的にもたくさん行われています。
しかし、同化政策は相手の民族性や文化を否定するものであり、これが当時のアイヌの人々にとっても大きな苦痛であったことは想像に難くないと思います。
1876年に開校した札幌農学校は現在の北海道大学の前身であり、初代教頭となったクラーク*²の下でキリスト教的な高等教育が行われたことで、後に内村鑑三*³や新渡戸稲造*⁴のような札幌バンドと呼ばれる優秀な人材を多く輩出します。
1881年の開拓使官有物払下げ事件は明治十四年の政変のきっかけにもなった事件であり、政治解説がメインではないため今回は詳しい解説を省きますが、簡単に言えば、開拓使の資産である工場や土地などの官有物を旧薩摩藩であった黒田清隆が同じく旧薩摩藩であった政商の五代友厚に定価30万円*⁵で払い下げようとしましたが、世論の反対で中止したという事件です。
1889年に制定された北海道旧土人保護法は同化政策で困窮したアイヌの人々の困窮を救済する目的で制定されましたが、問題も多かったため1997年のアイヌ文化振興法の制定に伴って廃止されました。
*¹1874年から始まった屯田兵制度は桃鉄でも屯田兵カードとして出てくるので知っている人も多いかもしれませんが、普段は田んぼを耕して開拓を進めながら、兵士として警備なども担う人達のことです。
*²クラークはアメリカのマサチューセッツ工科大学の学長でもあり、化学や植物学などに精通していました。彼は開拓使によって招かれたいわゆるお雇い外国人の一人であり、北海道農学校で教鞭を執っていたのはわずか8ヶ月程でしたが、「Boys, be ambitious(少年よ、大志を抱け)」という言葉を残した彼の信念は学生達に受け継がれていきました。
*³内村鑑三について日本史で覚えておきたいのは内村鑑三不敬事件です。彼は第一高等中学校(現在の東京大学教養学部・千葉大学医学部・薬学部の前身)で教鞭を執っていましたが、1891年の教育勅語の奉読式で、天皇の署名が入った教育勅語に対して最敬礼を行わなかったことが不敬だと非難されてしまい教職を追われることになってしまいました。
*⁴新渡戸稲造は英語で日本人の道徳観を解説した『武士道』の著者であり、国際連盟事務局次長も務めた人物です。また、東京女子大学の初代校長を勤めるなど教育にも尽力しました。そうした功績から過去には五千円紙幣の肖像にもなっています。
*⁵払下げ代金は30万円でしたが、払い下げられる官有物は当時の価格で1500万円以上の投資がなされたものでした。
まとめ
それでは、最後にもう一度今回の講座でやった蝦夷地・北海道の全ての出来事をまとめた年表を見ておさらいをしていきましょう!
647年 | 渟足柵を築く |
648年 | 磐舟柵を築く |
658年 | 阿倍比羅夫を東北へ派遣 |
708年 | 出羽柵を築く |
712年 | 出羽国設置 |
724年 | 陸奥国に多賀城を築く →蝦夷の反乱が理由 |
780年 | 伊治呰麻呂の乱 →反乱を起こし、多賀城を陥落させる |
788年 | 第1回蝦夷征討…征討大使は紀古佐美 →翌年、蝦夷の族長阿弖流為らに大敗 |
791年 | 第2回蝦夷征討…征討大使は大伴弟麻呂 →戦果については詳細不明 |
797年 | 第3回蝦夷征討…征夷大将軍は坂上田村麻呂 |
802年 | 阿弖流為が降伏 →陸奥国に胆沢城を築く |
803年 | 志波城を築く |
811年 | 征夷将軍文屋綿麻呂が蝦夷平定 |
1457年 | コシャマインの戦い →蠣崎氏(後の松前氏)が鎮圧 |
1604年 | 松前氏、家康からアイヌとの交易独占権を認可 →商場知行制→場所請負制度 |
1669年 | シャクシャインの戦い →商場知行制に不満を持ったアイヌの反乱 →アイヌ側が敗北 |
1789年 | クナシリ・メナシの戦い →アイヌ側が敗北(アイヌの最後の蜂起) →首長のイコトイが蜂起した若者を説得 |
1799年 | 幕府、東蝦夷地を直轄(場所請負制度廃止) |
1807年 | 幕府、全蝦夷地を直轄(松前藩は奥州へ) |
1821年 | 幕府、松前氏に蝦夷地を返す |
1855年 | 幕府、東西の蝦夷地を再び直轄 |
1869年 | 開拓使設置、蝦夷地を北海道と改称 →アイヌ民族の同化政策開始 |
1874年 | 屯田兵制度を開始 →1904年に廃止 |
1876年 | 札幌農学校が開校 →初代教頭にクラークが就任 |
1881年 | 開拓使官有物払下げ事件 →北海道開拓長官の黒田清隆が官有物を 五代友厚に払い下げしようとしたが、 世論の反対にあって取りやめた事件 |
1882年 | 開拓使廃止 |
1889年 | 北海道旧土人保護法制定 →同化政策で困窮したアイヌの人々の救済が目的 →しかし、日本語教育や農業の強制が加速 |
1997年 | アイヌ文化振興法成立 →アイヌの人々が尊重された社会の実現が目的 →北海道旧土人保護法の廃止 |
今回は各時代の学習を進めるごとに学習することの多い蝦夷地・北海道についてピックアップして解説してきましたがどうでしたか?
歴史の学習を進めていると中々抜けてしまいがちな分野である蝦夷地・北海道ですが、出題されることも多いのでしっかりと押さえておくことで強力な得点源になります。
この記事で理解を深めて是非他の受験生に差をつけてくださいね!