解答&解説
Ⅰ.
①征夷大将軍
②イ-ウ-ア
永仁の徳政令は1297年の鎌倉時代に、嘉吉の徳政令は1441年の室町時代に、棄捐令は寛政の改革や天保の改革などで行われていますが、江戸時代に出された徳政令というのは変わらないのでこの並びになります。
③源実朝
実朝の私家集である『金槐和歌集』は文化史でも出てくるので、知らなかった方はこの機会に覚えましょう!
④清水家
尾張・紀伊・水戸の徳川御三家は有名ですが、御三卿の方については知らない人も多かったと思うので、この機会に解説しましょう。
御三卿について
①田安家…1730年、吉宗の子、宗武
②一橋家…1740年、吉宗の子、宗伊→11代家斉・15代慶喜
③清水家…1759年、家重の子、重好
御三卿は将軍家や御三家に後継がいないときに後継者を提供する役割があり、御三家に次ぐ家格を持つ徳川家の分家です。
特に、一橋家は11代将軍家斉・15代将軍慶喜を輩出した家系なので絶対に覚えておきましょう!
Ⅱ.
⑤イ
伊藤博文は4回、山県有朋・松方正義は2回内閣を組閣したことがありますが、黒田清隆だけは1回しか内閣を組閣していません。
⑥憲政党
憲政党は板垣退助の自由党と大隈重信の立憲改進党(後の進歩党)が1898年に合併して生まれた政党ですが、尾崎行雄文相の共和演説事件によって分裂してしまいました。
⑦犬養毅
⑧エ
ミッドウェー海戦の敗戦は太平洋戦争の戦局が逆転するものでしたが、東条英機内閣崩壊の原因となったのはサイパン島陥落により本土空襲が激化したことが原因なので、ⓐの文章は誤りです。
そして石川達三の『生きてゐる兵隊』は日本軍の残虐行為を描いたことで発禁となっています。そのため、国民の戦意高揚とはむしろ逆なのでⓑの文章も誤りです。
Ⅲ.
⑨彰子
定子と答えた人もいるかもしれませんが、定子は紫式部のライバルである清少納言が仕えた一条天皇の皇后です。
⑩森鷗外
⑪イ
ⓐの文章はその通りの内容で正しいですが、『新古今和歌集』は後鳥羽上皇による勅撰和歌集であり、村上天皇による2番目の勅撰和歌集は『後撰和歌集』のことなので、ⓑの文章は誤りです。
⑫夢窓疎石
疎石は臨済宗の黄金期を築いた禅僧です。
ちなみに、天龍寺の庭園は嵐山を借景にした池泉廻遊式と呼ばれる形式であり、中央の池を巡るような形の庭園となっています。
Ⅳ.
⑬誤/労働農民党(労農党)
農民労働党は浅沼稲次郎を書記長とする日本最初の無産政党でしたが、即日解散となっています。
⑭誤/本陣
旗籠は庶民の宿泊施設であるため、ここでは誤りです。
⑮誤/加曽利貝塚
大森貝塚は東京にある貝塚で、1877年にアメリカの動物学者であるモースが発見した貝塚なので、誤りです。
⑯正
Ⅴ.
⑰井原西鶴
⑱プラザ合意
⑲延久の荘園整理令
⑳隋
まとめ
さて、今回の日本史総合問題上級編を挑戦してみての結果は皆さんどうでしたか?
やってみて感じた人が多いと思いますが、問題の中でも比較的優しいものと答えさせる気があるのかというような難易度の問題がありました。
実際の試験問題でもこのように取らせる問題とあまり取らせる気のない問題があり、前者の問題さえ落とさずに正解していれば合格できるようにはなっています。
そのため、まずは基本問題を落とさないように基礎固めをしっかりすることが大切です。
しかし、後者の問題を少しでも正解できるようになれば他の受験生に差を付けられますし、他の苦手教科の点数をカバーできるようにもなるので、徐々にこうした問題に対応するための知識も身に着けていきたいです。
そのためにはひたすら問題に挑戦していって抜けてる知識の確認と吸収をしていくしかないので、過去問や問題集にも色々と挑戦してみると良いでしょう。
それでは皆さん本当にお疲れ様でした!
今年ももうすぐ終わり、来年からまたしばらくサイトの更新はお休みすることになってしまいますが、来年が皆さんにとって良き年となるよう祈っています。