今回は秀吉亡き後、天下分け目の関ヶ原の戦いに勝利して江戸幕府を開いた三英傑最後の一人である徳川家康について重要事項・頻出事項を押さえて解説していきます!
以前に信長や秀吉で扱った項目については省略しながら解説していくので、事前にこちらの記事に目を通しておくことをオススメします。
織田信長の記事はこちらです。
豊臣秀吉の記事はこちらです。
この講座の難易度は★★★☆☆です。
家康の戦歴
家康の幼少期~秀吉死去まで
まずは、秀吉が1598年に亡くなるまでの家康の略歴を簡単に見ていきましょう!
徳川家康(幼名:竹千代)は1542年に三河国*¹岡崎城城主の松平広忠の嫡男として生まれます。
家康の幼少期を一言で言えば、人質時代です。
家康の父の広忠は今川氏に忠義を誓っていたため、1549年からは今川義元の人質となって過ごし続けます*²。
しかし、1560年に織田信長が桶狭間の戦いで今川義元を破ったことで今川氏の従属から解放された家康は、1562年に信長と清州同盟を結びます
同盟締結後は信長と共に数々の戦いに参加する中で、1572年に西上作戦で攻めてきた武田信玄と三方ヶ原の戦いで大敗を喫してしまいピンチになりますが、空城の計*³や信玄の急死などもあり九死に一生を得て、後の1575年の長篠の戦いでは、織田信長との連合軍で武田勝頼を破ります。
その後、1582年に本能寺の変で信長が急死してしまったあとには、駿河・遠江*⁴・三河・甲斐*⁵・信濃*⁶の五ヵ国を支配するほどの大名になりましたが、豊臣秀吉と対立して1584年に小牧・長久手の戦いになりますが、和睦して秀吉に臣従します。
秀吉が1590年に全国統一を達成した後には、秀吉の命で関東へと移封されて江戸城へと移ります。
そして1598年の秀吉の死後には「息子の秀頼の成人までは家康に政権を託す」という秀吉の遺言から五大老*⁷の筆頭となり、実権を握っていくことになるわけです。
ちなみに、家康も生涯に何度も改名していますが、とりあえず以下の改名を押さえておけば大丈夫でしょう。
竹千代→松平元康→徳川家康
*¹三河…現在の愛知県東部のあたり。
*²ただし、今川氏の人質になる前の1547年から49年までの2年間は織田信秀の人質となっています。
これは今川氏への人質として運ばれていた家康が身内の裏切りで尾張へと送られてしまったためです。
その後、家康は今川氏が信秀の子と人質交換をしたことで、今度は今川氏の人質となります。
*³空城の計とは、『兵法三十六計』という中国の兵法書にある戦術の一つです。
どのような作戦かというと、字面からも想像できるように、あえて城を開け放つというものです。
城をあえて開け放つということは相当な罠があるのではないかと敵が勘ぐってしまい攻められなくなる一方で、そのまま攻撃されて全滅の危険もあるというハイリスクハイリターンの心理作戦なわけですね。
*⁴遠江…現在の静岡県西部・中部のあたり。
*⁵甲斐…現在の山梨県のあたり。
*⁶信濃…現在の長野・岐阜県のあたり。
*⁷五大老…豊臣政権下で実務を担う五奉行の顧問役。
五大老…徳川家康・前田利家→利長・毛利輝元・宇喜多秀家・上杉景勝
五奉行…石田三成・前田玄以・浅野長政・増田長盛・長束正家
関ヶ原の戦い
秀吉の死後、石田三成や毛利輝元ををはじめとする豊臣政権下の文治派と福島正則や加藤清正などの武断派が徐々に対立するようになります。
この間、家康は豊臣政権下では禁止されていた合議による合意を得ない婚姻を行い、武断派の大名との繋がりを深めていくのです。
そして五大老の一人である前田利家の死後に独裁色を強める家康と石田三成ら文治派の対立は決定的なものとなり、全国の大名を巻き込んでの天下分け目の戦いへと発展していきます。
戦闘は家康を中心とする東軍と三成を中心とする西軍に分かれて美濃国*¹の関ヶ原にて1600年行われます。
関ヶ原の戦いは最初、兵力でわずかに勝っていた西軍有利で展開されていきましたが、西軍側の小早川秀秋が東軍に寝返ったことをきっかけに形勢が一気に逆転し、東軍の勝利で終わります。
この戦いの勝利によって家康は莫大な権力を獲得し、1603年には征夷大将軍に任命されて江戸幕府を開きます。
これによって信長・秀吉と続いてきた安土桃山時代が終焉を迎え、260年以上続く江戸時代が始まったのです。
*¹美濃…現在の岐阜県南部のあたり。
大坂冬の陣・夏の陣
征夷大将軍に任命され江戸幕府を開いた家康は、1605年には将軍職を息子の秀忠に譲ります。
これによって将軍職は徳川家が世襲することを世に示したわけですね。
1607年には駿府城*¹に移って隠居したものの、引き続き大きな権力を発揮する大御所政治を展開します。
そんな中、1614年に方広寺鐘銘事件*²が起こります。
これを契機として、家康は豊臣氏を滅ぼすために大坂冬の陣が起こします。
戦闘は家康方が大坂城を包囲しての攻囲戦となりましたが、真田丸における真田信繁(幸村)の奮闘や真冬の戦いによる兵站不足に家康は苦しめられます。
そこで家康は豊臣方と三の丸・外堀などを埋め立てる代わりに秀頼の安全を保障するなどの内容で和議を結びます*³。
しかし家康方は三の丸・外堀のみならず二の丸の埋め立てまで行い、もはや裸同然となった大坂城に対して翌年1615年に大坂夏の陣を起こします。
堀を埋めたれられた大坂城では家康の大軍には耐えきれず、落城することになります。
この大坂夏の陣での敗北を悟った秀頼や秀頼の母である淀殿は自害したことで豊臣氏は滅亡することになったのです。
ちなみに、この大坂冬の陣と夏の陣を合わせて大坂の役と言う場合もあるので覚えておきましょう。
そして大坂夏の陣の翌年1616年に家康は病死し、75歳でその生涯に幕を下ろします。
*¹駿府城は現在の静岡県静岡市葵区にあった城です。
*²関ヶ原の戦い後も引き続き大きな力を持つ豊臣秀頼は家康にとって大きな障害でした。
そこで、家康は豊臣氏の財力の削減を目的として寺社造営を勧め、その過程で秀吉が発願した方広寺の大仏の再建が行われることになります。
しかし、梵鐘(釣鐘)に刻まれていた鐘銘の「国家安康」・「君臣豊楽」の部分が家康を二分して豊臣の繁栄を願うものであると家康は言い掛かりをつけて大坂冬の陣を起こす口実とします。
これが方広寺鐘銘事件です。
*³三の丸・外堀は家康方が、二の丸を豊臣方が埋め立てる和議が結ばれたとする史料もあります。
どちらにせよ家康が和議で結ばれた範囲を超えて堀を埋めようとしたことは変わりません。
大坂夏の陣の前に豊臣方は急いで堀を掘り起こそうとしますが、もはや大坂城の守備力は裸同然でした。
家康の政策
江戸幕府を開いた家康はその支配を盤石にするために様々な政策を実行し、体制を整備していきます。
今回はその中でも重要事項・頻出事項に絞って紹介をしていきましょう。
詳しい江戸幕府の支配体制等については以下の記事で解説しているので、こちらを見てみてください!
武家諸法度(元和令)
武家諸法度(元和令)は諸大名を統制するために1615年に出された全13カ条から成る法令です。
この武家諸法度は2代目将軍秀忠の命で出されたものですが、実質的には家康が出したものでした。
武家諸法度に違反した大名は改易・減封・転封などの処分を受けることになります。
ちなみに、一番最初に出されたこの武家諸法度は当時の年号から元和令と言われますが、後に寛永令や天和令などの内容が改訂された武家諸法度がいくつも出されているということを覚えておきましょう。
禁中並公家諸法度
禁中並公家諸法度は朝廷や公家を統制するために1615年に出された全17カ条から成る法令です。
禁中とは天皇のことを指すので、内容は字面の通りになります。
ちなみに、武家諸法度や禁中並公家諸法度の起草には家康の政治・外交顧問であった南禅寺の僧侶である金地院崇伝(以心崇伝)が関わっていたため、彼は「黒衣の宰相」とも呼ばれています。
武家諸法度→大名の統制が目的
禁中並公家諸法度→朝廷・公家の統制が目的
一国一城令
一国一城令は1615年に家康発案の下出された法令で、大名の居住する城は一国につき一つまでに制限してそれ以外の城は許さないという内容でした。
これによって国内にあった多くの城が破却され、大名の有力家臣の城なども取り壊されたことで大名の権威が強まり、江戸幕府の支配体制である幕藩体制を支える法令の一つとなりました。
まとめ
それでは、今回見てきた徳川家康に関する出来事等を年表でまとめていきましょう!
今回も重要事項・頻出事項を年表では赤字にしてありますので、まずはその出来事を覚えるようにしましょう!
1542年 | 三河で徳川家康が生まれる |
1547年 | 織田信秀の人質になる |
1549年 | 今川義元の人質になる |
1560年 | 桶狭間の戦い →今川氏の支配から解放される |
1562年 | 清州同盟 →織田信長と同盟を結ぶ |
1572年 | 三方ヶ原の戦い →武田信玄に敗れる |
1575年 | 長篠の戦い →信長との連合軍で武田勝頼を破る |
1582年 | 本能寺の変 |
1584年 | 小牧・長久手の戦い →秀吉と和睦 |
1590年 | 秀吉の全国統一に合わせて江戸城へと移封 |
1598年 | 秀吉死去→五大老筆頭になる |
1600年 | 関ヶ原の戦いで石田三成を破る |
1603年 | 征夷大将軍に任命され、江戸幕府を開く |
1605年 | 将軍職を秀忠に譲り大御所政治を展開 |
1607年 | 駿府城に移る |
1614年 | 方広寺鐘銘事件→大坂冬の陣 |
1615年 | 大坂夏の陣 →豊臣氏が滅亡する |
武家諸法度(元和令)を制定 | |
禁中並公家諸法度を制定 | |
一国一城令を制定 | |
1616年 | 家康が病死する(享年75歳) |