今回は文治政治について解説していきます。
第4代将軍家綱から第7代将軍家継までの治世をまとめて一気に見ていきましょう!
この講座の難易度は★★★☆☆です。
文治政治への転換
1603年に征夷大将軍になった徳川家康が江戸幕府を開いてから第3代将軍家光までの時代は、幕府の黎明期であったため、武力を背景とした強権的な支配体制が敷かれています。
この時代を武断政治と言います。
しかし、第4代将軍徳川家綱の時代になると方針を変え、儒教的な考え方に基づいて社会体制を整備して秩序を保ち、幕府の支配体制を安定化させようとします。
この第4代将軍徳川家綱から第7代将軍徳川家継までの時代を文治政治と言います。
幕府が文治政治へと方針転換したのは、次の2つの事件によって武力支配による秩序安定の限界を感じたところが大きかったです。
由井(比)正雪の乱(慶安の変)
武断政治の時代、幕府は武家諸法度に違反した大名達を容赦なく転封・減封・改易*¹処分にしています。
それによって主君を失った牢人が大量に増加します。
こうして牢人となった者達は幕府体制に不満を抱き、彼らが中心となって幕府の転覆を狙う事件が頻発したわけです。
その内の一つが1651年に起きた由井(比)正 雪の乱(慶安の変)でした。
由井正雪は幕府から士官の誘いが来るほどの兵学者でしたが、武断政治や鎖国政策によって武士の道を断たれた牢人たちを憂いていました。
幕府からの誘いを断った正雪は牢人達からの支持を集め、政治的な実行力に欠ける幼い家綱の将軍就任を契機として、牢人の丸橋忠弥らと共謀して幕府転覆事件を起こそうとします。
しかし、内部からの密告によって計画が事前に露見したことで、計画は未遂となり、正雪は自害、忠弥は磔刑に処されました。
*¹転封は「領地(国)替え」、減封は「領地削減」、改易は「領地没収・お家断絶」を意味しています。
承応事件(承応の変)
承応事件(承応の変)とは、軍学者であった別木(戸次)庄左衛門らが中心となって、1652年に起こした老中襲撃未遂事件です。
しかし、こちらも内部からの密告によって計画が事前に露呈したため、事件発生前に首謀者であった庄左衛門らは逮捕されます。
第4代将軍家綱の治世
家綱時代の特徴
幼年で第4代将軍に在職した家綱(在職期間:1651~1680)に代わり、保科正之*¹や老中の酒井忠清(後の大老)が政治を主導していきます。
家綱の時代は慶安の変や承応の変などの出来事があったため、武断政治から文治政治への転換が行われていった過渡期でした。
*¹保科正之は第2代将軍徳川秀忠の子で会津藩主でもありました。
藩政においては、朱子学者の山崎闇斎を招き「家訓十五箇条」の制定や社倉の設立などを行っています。
家綱時代の内容
家綱時代の主な政策は次の通りです。
末期養子の禁止を緩和 (1651年) | 改易による牢人の増加防止 |
江戸に定火消を設置 (1658年) | 明暦の大火*¹を受けての防火対策 |
殉死の禁止 (1663年) | 戦国時代からの遺風を断つ →文治政治への転換 |
領知宛行状 (1664年) | 将軍によって出された土地の証明書 →大名に対する将軍の権威を確認 |
大名証人制度の廃止 (1665年) | 大名から証人(人質)を出させる 制度を廃止→文治政治への転換 |
諸宗寺院法度 (1665年) | 仏教各宗共通の9カ条の法令 →仏教各宗の統制が目的 |
諸社禰宜神主法度 (1665年) | 神社の統制が目的の5カ条の法令 |
分地制限令 (1673年) | 分割相続による耕地の細分化に 歯止めをかけるため |
特に重要なのが、末期養子の禁止の緩和と殉死の禁止です。
武断政治の頃は、後継のいない大名が事故や病気などで死の危機に瀕した際などに、緊急措置として養子を迎え入れること(末期養子)を禁止していました。
これには、参勤交代や手伝普請などと同様に下剋上を阻止するために大名を弱体化させる意図があったわけです。
しかし、先に解説したように牢人の増加による事件が頻発して社会問題化したため、この末期養子の禁止を段階的に緩和していきます。
また、戦国時代以前から武士や身内が主君の後を追って自害する殉死の風習があり美徳とされましたが、江戸時代に入り戦死の機会も無くなります。
そのため、主君が戦死ではない病死や老死の場合でも殉死をする者が増えてしまったわけです。
そこで、戦国時代以前からの風習を断ち切るために、家綱時代に行われた武家諸法度の改訂(寛文令)によって殉死の禁止が定められます。
また、寺院や神社を統制するために諸宗寺院法度や諸社禰宜神主法度を、分割相続によって耕地が細分化されて経営が不安定になるのを防ぐため*²に分地制限令などが制定されました。
*¹明暦の大火…1657年に江戸の大半を焼いた大火災。
死者は5万人から10万人とも言われ、江戸城の天守なども焼失するなど甚大な被害を受けた。
本妙寺で供養のために燃やした振袖が出火原因とする伝承から「振袖火事」とも言われる。
この大火の後も防火対策は行われたものの、火事は頻発し、「火事と喧嘩は江戸の華」とも呼ばれた。
江戸で起きた主要な火事 | |
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1657年 | 明暦の大火(振袖火事) |
1682年 | 天和の大火(お七火事) |
1698年 | 勅額火事 |
1772年 | 明和の大火(目黒行人坂の火事) |
1806年 | 文化の大火(丙寅の大火) |
1829年 | 文政の大火(神田佐久間町の火事) |
1855年 | 安政の大火(地震火事) |
この他にも40回以上の火事が江戸では起こっている。
*²江戸時代の幕府の主要な財源である年貢は米であるため、耕地経営の安定化は幕府にとって重要でした。
第5代将軍綱吉の治世
綱吉時代の特徴
第4代将軍家綱は嗣子がいないまま亡くなった*¹ため、家綱の弟だった館 林藩主の徳川綱吉(在職期間:1680~1709)が第5代将軍に抜擢されます。
最初は、大老の堀田正俊が政治を補佐していましたが、1684年に江戸城内で暗殺されたため、その後は側用人の 柳沢吉保が主に政治を補佐することになります。
大老の堀田正俊が生きている頃は天和の治と呼ばれる善政が敷かれていましたが、正俊の死後は綱吉の独断政治が目立つようになってしまいます。
*¹これによって徳川宗家の直系子孫が将軍職を相続する流れが途絶えました。
*²画像引用元:甲府市/柳沢吉保
綱吉時代の内容
綱吉時代の主な政策は次の通りです。
護国寺建立 (1681年) | 綱吉の母桂昌院の発願により建立 |
服忌令 (1684年) | 喪に服する(服忌)期間について規定 |
生 類 憐みの令 (1685年) | 動物愛護やかぶき者*¹の取締りなどが目的 →厳しい罰則や獣害で人々は苦しんだ |
貞 享暦の導入 (1685年) | 元の授時暦を改良した暦を採用 渋川春海(安井算哲)を天文方に登用 |
北村季吟を歌学方に登用 (1689年) | 和歌や歌道の研究を奨励 北村季吟は源氏物語の研究で有名*² |
湯島聖堂建設 (1690年) | 聖堂学問所は学問の中心として機能 →林鳳岡(信篤)は初代大学頭に登用される |
元禄小判鋳造 (1695年) | 金の含有率を下げた質の悪い貨幣への改鋳 →出目による収入確保や貨幣需要対応のため |
東大寺大仏殿建立 (1709年) | 2度焼失した大仏殿を再建 現存する大仏殿はこの時に再建されたもの |
一番有名なのは、生類憐みの令でしょう。
生類憐みの令は文字通り、動物や捨て子・病人の保護などを奨励した法令です。
一番有名なのは犬*³ですが、猫や鳥など他の幅広い動物も対象とされました。
法令の趣旨自体は理想主義的なものであり、特に捨て子への対策には力を入れましたが、違反者への厳しい罰則や農作物に対する獣害の深刻化を招いてしまい、庶民生活にも大きな影響を与えたため、後の正徳の治で廃止されることになります。
また、勘 定吟味役に登用されていた荻原重秀の意見で、それまで使われていた慶長小判の金の含有率約84%から約57%まで下げられた元禄小判が鋳造されます。
これは佐渡金山などの鉱山の採掘量低下・綱吉の生類憐みの令・桂昌院の散財などにより悪化した幕府財政を解消するために、出目(差益)による利益を目的として行われたものでした。
そして、その他の政策からも分かるように、綱吉は儒教を重視し、積極的に学問を奨励します。
こうした点から、綱吉の時代は文治政治の進展期とも言えます。
後世では悪政の典型例として挙げられることも多い綱吉の政治ですが、学問の奨励という意味では大きな役割を果たしたわけです。
ちなみに、綱吉時代の末期の1701年には『忠臣蔵』の題材でも有名な赤穂事件*⁴が、1707年には宝永地震、そして富士山の大噴火が起こっています。
*¹かぶき者…派手な服装を好み、当時の常識や秩序から外れた行動をした者達で江戸時代初期に特に流行した。
*²源氏物語の注釈書である『源氏物語湖月抄』が季吟の有名な著作です。
*³野犬を収容・保護するための犬小屋は有名です。
これによって綱吉は「犬公方」とも後に呼ばれるようになりました。
ちなみに、昔の漫画・アニメの『北斗の拳』においてこれをモチーフにしたであろうエピソードがあります。
*⁴赤穂事件…江戸城内で赤穂藩主浅野長矩が吉良義央を斬りつけたとして、浅野は切腹させられ、藩は改易処分となった。
その後、浅野の元家臣の47人(赤穂浪士)が吉良邸を襲撃して義央を討ち取った事件。
正徳の治
正徳の治の特徴
正 徳の治は、第6代将軍徳川家宣と第7代将軍徳川家継が在職している期間中に儒学者の新井白石や側用人の間部詮房を中心として進められます。
家宣も家継*¹も将軍に在職してからすぐに病死してしまったため、期間としては1709年から1716年までの約7年程度です。
この正徳の治の大きな課題は「5代目将軍徳川綱吉の政治を修正する」ことでした。
綱吉は、大老の堀田正俊が生きていた頃までは天和の治と言われる善政を行っていましたが、彼が暗殺された後は生類憐みの令を始めとする悪政を行っていましたね。
この悪政を修正することが正徳の治の大きな課題だったんです!
正徳の治の内容
それでは、正徳の治で行われた改革の内容を以下の表で確認していきましょう!
生類憐みの令の廃止 (1709年) | 綱吉の政治を修正 |
閑院宮家*²の設立 (1710年) | 皇継の血統断絶を防ぐため |
朝鮮通信使の待遇を簡素化 | 経費節減のため |
正徳小判を発行 (1714年) | 元禄小判以前の良質な貨幣に戻した |
海舶互市新例 (1715年) | 金銀流出の懸念 →長崎貿易を制限 |
綱吉の時代に行われた悪政や悪化した幕府財政を立て直すために、これらの改革が行われます。
特に赤字でチェックしてあるところが重要なので、そこを重点的に覚えていきましょう!
正徳小判は元禄小判よりも金の含有率を上げた良質な貨幣です。
この貨幣改鋳の評価は現在諸説あるようですが、白石は当時起きていたインフレの原因がこれにあると考えて正徳小判を鋳造します。
この良貨政策は正徳の治の後も引き継がれ、結果的には通貨供給量の減少によってデフレによる経済不況が起こってしまうことになります。
そして海舶互市新例は、長崎貿易によって金銀が海外に流出することを懸念した白石が海外貿易を制限するために出された法令です。
この白石の金銀流出の懸念は、彼の自伝である『折たく柴の記』にも記されています。
*¹家継が病死したのはわずか8歳ばかりの頃であり、あまりにも早すぎる死でした。
*²当時の宮家は伏見宮・桂 宮・有栖川 宮の3家しかなく、皇家血統に万が一があったことや朝幕融和を考えて、幕府が創設費用を献上し、3家以外の宮家として閑院宮家は創設されました。
この閑院宮家が創設されたおかげで、後桃園天皇が崩御した後に閑院宮家から光格天皇が即位することで、皇継が途絶えずに済んだわけです。
まとめ
第4代将軍家綱から第7代将軍家継までの治世をまとめて一気に見てきました。
復習の際には、各項目の政策一覧表の赤字や太字の部分を重点的にしていくと良いでしょう。
家継の後の第8代将軍吉宗はかの有名な享保の改革を行います。
これについてはこちらの記事でまとめてありますので、続きを勉強したい方は見てくださいね。