今回は戦国時代の数多の武将の中でも頭一つ抜けた知名度と人気を誇り、ゲームなどでもお馴染みの織田信長について試験や受験の重要事項を押さえながら徹底解説していきます!
天下統一まであと少しの所までいきながら本能寺の変で志半ばで没してしまった信長の生涯とその戦歴を一緒に見ていきましょう!
この講座の難易度は★★★☆☆です。
信長の幼少期・青年期
織田信長(幼名:吉法師)は1534年に尾張*¹の大名であった織田信秀の子として生まれます。
幼少期はうつけ者*²とも言われ奔放な幼少期を過ごした信長でしたが、1549年(1548年とする説もある)に美濃*³の戦国大名である斎藤道三の娘である濃姫*⁴と政略結婚することになります。
政略結婚と聞いても自由恋愛が当たり前の現代人にはピンとこないかもしれませんが、昔はこのような当人の意志を無視した政略結婚が同盟の締結や和睦などのために行われていたのです。
ちなみに、信長と濃姫が結婚した際、それぞれ年齢は10代半ばと高校生の皆さんとほとんど変わらない年代でした。
色々と現代の我々の恋愛・結婚常識とはかけ離れていたわけですね。
この結婚の後、普段はうつけ者とされる行動をしていた信長が多数の鉄砲を装備した護衛と共に正装で道三との会見に現れた際に、道三が信長の底の知れなさに気付くという有名なエピソードもあります。
その後は1552年に父の信秀が死去したことで、18歳にして家督を継ぐことになります。
ここから織田信長の天下人への道のりが始まっていくのです。
*¹尾張…現在の愛知県西部のあたり。
*²「うつけ者」は常識外れの変わり者といったような意味です。
*³美濃…現在の岐阜県南部のあたり。
*⁴濃姫は本名ではなく「美濃の姫君」という意味です。
本名には諸説ありますが、帰蝶若しくは胡蝶であったとされています。
「モンスターストライク」に帰蝶という限定キャラがいるのでご存じの方もいるかもしれませんね。
信長の戦歴
桶狭間の戦い
1560年、現在の静岡県を中心とする東海一帯を支配していた戦国大名である今川義元は2万5000人に上る大軍で尾張へと侵攻してきます。
一方の信長陣営の兵力はせいぜい3000人程度であり、兵力差は約8:1とその差は歴然でした。
それでは、この兵力差の戦いがどのように進展したのかを見ていきましょう。
開戦当初、今川方は信長側陣営の砦を次々と陥落させるなど順調に進軍していたため、桶狭間山*¹に陣を敷き休息を取っていました。
そんな中、山に視界を遮る程の大雨が降ったことを好機と見た信長は、桶狭間山の細い山道で陣を敷いていたことで兵が分散し手薄になっていた義元の本陣に奇襲を仕掛けることで兵力の差をイーブンに持っていたのです!
このようにして信長は圧倒的な兵力差を覆して今川義元を見事討ち破ります。
これがかの有名な桶狭間の戦いです。
この戦いの後、後で解説するように美濃の斎藤氏と揉めていた信長は、今川氏の従属関係から解放された松平元康(後の徳川家康)と1562年に清州同盟を結び、協力関係を築きます。
*¹桶狭間は現在の愛知県名古屋市・豊明市のあたり。
美濃攻略・上洛
斎藤氏との関係悪化
信長の義父にあたる斎藤道三は息子の斎藤義龍と政治的に揉めている状態にありましたが、そんなある日、義龍側が道三を討とうと挙兵したという報せを信長は聞きます。
信長は義父である道三の救援に向かうため美濃へと向かいますが、1556年の長良川の戦いで道三は戦死してしまいます。
これ以降、信長と斎藤氏の関係は悪化してしまったのです。
浅井長政との同盟と足利義昭の接近
信長と斎藤氏の争いが膠着状態にある中、両者はこの膠着状態を打破するために北近江*¹の戦国大名であった浅井長政との同盟を模索します。
信長は斎藤氏より先に長政との同盟を取付け、この際に妹のお市を長政と政略結婚させています。
同じ頃、永禄の変*²で暗殺された室町幕府第13代将軍足利義輝の弟であった足利義昭は追手から逃げ、越前*³の朝倉義景に匿ってもらいながら諸大名に協力を要請して、上洛*⁴の機会を狙っている最中でした。
信長は義昭のこの要請を承諾します。
なぜなら、室町幕府の権威が大きく低下した戦国時代でも、室町幕府と征夷大将軍というのは形の上では最高権力者だったので、義昭を奉じて上洛する(一種の後見人になる)ことは戦国大名にとって政治的な影響力を高めるという意味で大きな意味があったからです。
こうして美濃攻略と義昭を奉じての上洛が信長の当面の目標となります。
*¹近江…現在の滋賀県のあたり。
*²永禄の変…1565年に室町幕府第13代将軍足利義輝が三好・松永氏によって京都で殺害された事件。
*³越前…現在の福井県と岐阜県の間のあたり。
*⁴上洛…朝廷がある京都に入ること。
美濃攻略と上洛達成
長政との同盟を斎藤氏に先んじて結んだことで優位に立った信長は、斎藤氏の攻略を進めていきます。
やがて斎藤氏は居城である稲葉山城まで追い詰められ、1567年に美濃から追放されます。
これによって美濃攻略を完了した信長は稲葉山を岐阜へと改称し、以降の本拠地としました。
そして翌年の1568年には義昭を奉じて上洛し、義昭は室町幕府の第15代将軍となり、信長はその褒賞として義昭から提案のあった幕府の役職などを断り、堺・草津・大津などの都市を直轄地として治めることを要求し、これを承諾してもらいます。
これらの都市が貿易や産業の面において価値があることを信長は理解していたのです。
例えば、堺は火縄銃(鉄砲)の生産地や貿易港として非常に優れていました。
しかし、しばらくして信長と義昭の仲は険悪になり、義昭は朝倉氏や石山本願寺の顕如などと結び付いて信長と対立していくことになります。
その後、1573年に信長が義昭を京都から追放したことで室町幕府は滅亡することになったのです。
姉川の戦い
1570年、信長はかねてより自身の思い通りにあまり動かなかった朝倉義景を、義昭の上洛命令を拒否した事を口実にして徳川家康との連合軍で攻撃します。
しかし、理由は現在でも議論がされていて不透明ですが、攻撃の最中に突如同盟を結んでいたはずの浅井長政が裏切り、信長と家康の軍を朝倉方と挟み撃ちにする形で攻撃してきたのです。
信長は止む無く撤退を開始し、部下の木下藤吉郎(後の豊臣秀吉)の活躍もあり、何とか撤退に成功します。
この出来事を金ヶ崎の戦いと言います。
この後、信長は陣形を立て直し、家康との連合軍で、現在の滋賀県にある姉川で浅井・朝倉の連合軍と戦います。
戦いは非常に激しいものになりましたが、最終的には信長と家康の連合軍が浅井・朝倉の連合軍を破って決着します。
この戦いが姉川の戦いです。
しかし、注意が必要なのは、この戦いにおいて浅井・朝倉は甚大な被害を被りましたが、完全には滅んでおらず、後に他の反信長勢力と手を結んで信長への抵抗を続けていくということです。
その後、1573年の小谷城の戦い*¹で浅井氏が、一乗谷城の戦いで朝倉氏がそれぞれ信長に攻め滅ぼされることになります。
*¹この時、信長の妹であるお市は三人の娘(茶々・初・江)と共に信長の家臣に救出されています。
この三人の娘は茶々(淀殿)が豊臣秀吉の、初は京極高次の、江は徳川秀忠の妻にそれぞれなります
石山戦争と一向一揆
義昭を奉じての上洛以降、影響力を増していった信長は武家勢力のみならず、宗教関係に対してもその影響力を拡大しようとしていきます。
これに対抗するために、本願寺法主の顕如は信長に敵対していた義昭・朝倉・浅井・武田氏・雑賀衆*¹などと連携して信長包囲網を形成していくことになります。
そして、姉川の戦いが行われた同年1570年に、顕如が門徒と共に挙兵したことで石山戦争(1570年~1580年)が始まったのです。
石山戦争における信長と本願寺の戦いは非常に長期に及び、信長は攻略に10年以上の月日を要することになります。
また、これに関連して、伊勢長島の一向一揆(1570~1574年)、越前の一向一揆(1574年~1575年)、紀伊雑賀の一向一揆(1577年)、加賀の一向一揆(1488年~1580年)などの一向一揆にも信長は苦しめられます。
このように大名との合戦だけでなく宗教勢力や一向一揆*²などとも信長は戦い続けたのです。
*¹雑賀衆は鉄砲等で武装していた現在で言うところの傭兵部隊です。
*²一向一揆については室町時代にも出てきますが、浄土真宗(一向宗)の門徒による一揆を指します。
比叡山延暦寺焼打ち
信長と比叡山延暦寺は、元々信長が比叡山領を横領していたことなどから対立していましたが、姉川の戦いに敗れた浅井・朝倉氏が比叡山に立て籠もったことを受けて、信長は比叡山を攻撃することを決意します。
そして1571年に比叡山延暦寺焼打ちを行ったのです。
これによって比叡山は徹底的に破壊され、数千人に上る人が亡くなったと言われています。
長篠の戦い
西上作戦を行っていた武田信玄が病により急死したことで作戦は頓挫し、子の武田勝頼が家督を継ぐことになります。
信長・家康はこれを機と見なし、武田に西上作戦で奪われた三河*¹や遠江*²を奪い返すために反転攻勢に踏み切ります。
一方の勝頼も三河や遠江を再び手に入れるために侵攻を開始したことで、両軍は1575年に長篠*³でぶつかることになったのです。
これが長篠の戦い(長篠合戦)です。
この戦いでは、強力な武田の騎馬隊に対して信長・家康の連合軍は、騎馬隊の侵攻を防ぐための柵や土塁を築いて鉄砲隊を主力に迎え撃つことで対応します。
この柵や土塁には、騎馬隊の侵攻を遅らせるだけでなく、鉄砲の弾を再装填するための時間を稼ぐという意味で大きな意味があります。
この作戦が功を奏し、信長・家康の連合軍は武田勝頼の騎馬隊を破ることに成功したのです。
武田氏はこの敗北を機に衰退していき、1582年に行われた天目山の戦いで勝頼は敗死し、武田氏は滅びてしまいます。
*¹三河…現在の愛知県東部のあたり。
*²遠江…現在の静岡県西部・中部のあたり。
*³長篠…現在の愛知県新城市のあたり。
本能寺の変
長篠の合戦の後、信長は部下の羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)に中国攻めを命じており、1582年には備中高松城を攻め落とそうとしていましたが、堅牢な備中高松城を落城させるのは困難だと考えた秀吉は水攻めを実行します。
これに対して毛利輝元が備中高松城の救援へと向かったことで全面決戦が予想されたため、秀吉は信長へ援軍の要請を出します。
信長は家臣の明智光秀に援軍に行くように命じ、自身も備中へと赴くために本能寺に向かい滞在することになりました。
しかし、秀吉の援軍に向かうはずだった光秀は「敵は本能寺にあり」と言って突如として信長を裏切り、本能寺にいた信長を襲撃します。
襲撃を受けた本能寺は火の手に包まれ、天下統一の志半ばで信長は自害したのです。
これが有名な本能寺の変です。
ちなみに、光秀が信長を裏切った理由については現在でも諸説あります。
昔は信長への怨恨説や光秀も天下統一を目指していたという野望説などが主流でしたが、現在は更に複数の説が挙げられては否定されており、確かな事は分かりません。
歴史的にも重大な出来事であったにも関わらず、なぜ起こったのか分からないという日本史のミステリーというわけです。
皆さんはなぜ光秀がこのタイミングで信長を裏切り、本能寺の変を起こしたと思いますか?
もしも本能寺の変が起こらなかったら、日本の歴史はどのようになっていたと思いますか?
こういった日本史の「なぜ」や「もしも」を考えるのも日本史の面白い所だと思うので、少し考えてみるのも一興ですよ!
信長の政策
信長の戦歴の項目でかなり長い時間を使ってしまったと思うので、政策については重要事項のみをピックアップして以下の表で簡単にまとめていきましょう。
経済政策 | 楽市令(楽市楽座令)を出して 商工業者の自由な取引を奨励 |
土地政策 | 領地台帳を家臣や村落に申告させる 指出検地を実施 |
建築 | 琵琶湖付近に安土城を築城 (1576年~1579年) |
当時の都市では「座」という商工業者の同業者組合が大きな力を市場で持っていましたが、楽市令によって座の独占を廃止し自由な取引を奨励しています。
信長の代表的な経済政策の一つでしたが、楽市令自体は今川氏や北条氏などの戦国大名が実施した例もあります。
指出検地は領主が直接奉行を派遣して調べるのではなく、家臣や村落に自己申告させる検地方法です。
しかし、この検地方法も信長だけでなく一般的な戦国大名が行った検地方法の一つでもあります。
安土城は当時としては非常に豪華絢爛な城郭で桃山文化の代表的な建築の一つですが、本能寺の変の後に何らかの理由で天守・本丸が焼失してしまっています。
まとめ
それでは、今回見てきた織田信長に関する出来事等を年表でまとめていきましょう!
今回はかなり量が多いので、重要事項・頻出事項を年表では赤字にしてありますので、まずはその出来事を覚えるようにすると得点アップに繋がりやすいですよ!
1534年 | 尾張で織田信長が生まれる |
1549年 | 信長が斎藤道三の娘である濃姫と結婚する |
1552年 | 父の信秀が死去 →信長が家督を継ぐ |
1556年 | 長良川の戦い →道三が戦死して斎藤氏との関係が悪化 |
1560年 | 桶狭間の戦い →今川義元を破る |
1562年 | 清州同盟 →信長と松平元康(後の徳川家康)の同盟 |
1567年 | 美濃攻略 |
1568年 | 足利義昭を奉じて上洛 |
1570年 | 金ヶ崎の戦い →浅井長政の裏切りで撤退 |
姉川の戦い →家康との連合軍で浅井・朝倉の連合軍を破る | |
石山戦争が始まる(~80年) | |
伊勢長島の一向一揆が始まる(~74年) | |
1571年 | 比叡山延暦寺焼打ち |
1573年 | 室町幕府滅亡(義昭を京都から追放) |
小谷城の戦い →浅井氏が滅びる | |
一乗谷城の戦い →朝倉氏が滅びる | |
1574年 | 越前の一向一揆が始まる(~75年) |
1575年 | 長篠の戦い(長篠合戦) →家康との連合軍で武田勝頼を破る |
1576年 | 安土城の築城開始(~79年) |
1577年 | 紀伊雑賀の一向一揆と戦う |
1580年 | 加賀の一向一揆を平定する(1488年~1580年) |
1582年 | 天目山の戦い →武田勝頼敗死・武田氏滅亡 |
本能寺の変 →明智光秀の裏切りによって本能寺で襲われ自害 |
今回の内容の続きとなる秀吉についての記事はこちらです。