今回は、第13代将軍徳川家定の将軍継嗣問題から坂下門外の変までについてまとめていきたいと思います。
ちなみに、前回やったペリー来航から開国までの流れを解説した記事はこちらです。
この講座の難易度は★★★☆☆です。
家定の将軍継嗣問題
ペリー来航から間もなく、病床に伏していた第12代将軍徳川家慶が亡くなり、第13代将軍として徳川家定が就任します。
しかし、家定は病弱であり、後継となる実子にも恵まれなかったため、早い段階から後継者争いは始まっていたのです。
対立していたのは、保守派を中心とする南紀派と雄藩を中心とする一 橋派でした。
詳しくは以下の表を見て確認してください。
南紀派が推していた徳川慶福(後の徳川家茂)は紀州藩主であるとともに、第11代将軍徳川家斉の孫でしたが、まだ10代前後とかなりの若年でした。
一橋派が推していた一橋慶喜(後の徳川慶喜)は御三卿*¹の一つである一橋家当主であり、水戸藩主徳川斉昭の実子でした。
慶喜は幼少から水戸の弘道館で学芸や武芸を叩きこまれており、聡明であると評判でしたが、血筋は家康にまで遡らなければ将軍家に繋がりませんでした。
こうして拮抗していた南紀派と一橋派の対立は、南紀派の井伊直弼が大老に就任したことや家定自身の意向もあって、後継は徳川慶福に決まり、南紀派の勝利で終わります。
その後間もなく亡くなった家定に代わって、慶福は徳川家茂に改名し、1858年に第14代将軍に就任します。
しかし、これは朝廷の「時勢に対応できる年長者が将軍になるのが望ましい」という意向を無視したものでした。
*¹御三卿…吉宗の子である宗武と宗尹、家重の子である重好の三人から創立された徳川将軍家の分家で、田安家・一橋家・清水家の三つから成ります。
主な役割は将軍や御三家に後継がいない時に後継者を提供することで、御三家に次ぐ家格を持っています。
安政の大獄
将軍継嗣問題は南紀派の勝利で終わりましたが、先述したように朝廷の意向を無視したものでした。
また、同年には日米修好通商条約の無勅許調印が行われたことと合わせて、一橋派はこれを違勅であると批判したため、井伊直弼は一橋派の弾圧に乗り出します。
この弾圧を安政の大獄と言います。
安政の大獄は1858年から59年にかけて行われ、以下の主要人物を含む100人以上が処罰されました。
徳川斉昭 | 前水戸藩主 | 永蟄居 |
一橋慶喜 | 一橋家当主 | 隠居・謹慎 |
松平慶永 | 越前藩主 | 隠居・謹慎 |
山内豊重 | 土佐藩主 | 隠居・謹慎 |
堀田正睦 | 老中 | 隠居・謹慎 |
橋本左内 | 慶永の側近 | 死罪 |
吉田松 陰*¹ | 長州藩士 | 死罪 |
頼三樹三郎*² | 頼山陽の子 | 死罪 |
*¹吉田松陰…松下村 塾を開いたことでも有名な長州藩士。
日米修好通商条約の無勅許調印を批判したため、安政の大獄で死罪となってしまいました。
*²頼三樹三郎…『日本外史』を著した儒学者である頼山陽の実子。
将軍継嗣問題で慶喜の将軍就任と尊皇攘夷を朝廷に働きかけたため、安政の大獄で死罪にされた。
桜田門外の変
井伊直弼の違勅や安政の大獄は一橋派をはじめとした多くの人の恨みを買うことになります。
その結果、1860年に井伊直弼は水戸・薩摩藩の脱藩浪士18人に江戸城の桜田門外で襲撃され暗殺されてしまったのです。
この事件を桜田門外の変と言います。
現職の大老が暗殺されるというショッキングなこの事件は、幕府に衝撃を持って受け入れられ、幕府の権威は大きく失墜することになります。
老中安藤信正の政治
暗殺された井伊直弼に代わって、幕政は老中の安藤信正が主導することになります。
物価高騰
当時、日本国内では生糸や米などの物価が非常に高騰していました。
物価高騰が起こっていた理由は主に以下の3つが挙げられます。
- 輸出超過による品不足
- 政情不安によって起こった買い占め
- 海外への金貨流出
安政の五ヵ国条約以降、海外との貿易が始まると、日本は大幅な輸出超過状態となり、生糸や蚕卵紙をはじめとした品が国内で不足するようになり、政情不安から米の買い占めも起こりました。
また、日米修好通商条約で定められた貨幣の同種同量交換と日本と海外の金貨と銀貨の交換比率の違いによって、外国人が金貨を大量に持ち出していたのです。
この仕組みについては、以下の図解を詳しく見てみてください。
①1ドル銀貨を日本の一分銀と同種同量交換し、②一分銀を天保小判に両替し(1:5)、③天保小判を地金として海外で銀貨と交換する(1:15)。
この手順を踏むだけで銀貨が3倍になったので、外国商人はこの手段を用いて銀貨を増やします*¹。
その結果として、日本の金貨が大量に流出してしまったわけですね。
これら3つの理由が主な原因となり、物価が非常に高騰してしまったのです。
*¹アメリカ総領事のハリスもこの手段を用いて銀貨を増やしたと言われています。
五品江戸廻送令と万延貨幣改鋳
物価高騰対策のため、信正は1860年に五品江戸廻送令を発令します。
五品江戸廻送令は、生糸・雑穀・水 油・蠟・呉服の五品は、開港場への直送を禁止して、必ず江戸を経由させるように指示した法令です。
これによって、江戸の問屋に流通を統制させ、国内の品不足を解消しようとしたわけですね。
しかし、商人や列強の強い反対もあり、思ったような効果は上げられませんでした。
同年には、金貨流出対策のため、天保小判の約3分の1以下の金しか含有していない万延小判へと改鋳しました(万延貨幣改鋳)。
しかし、この貨幣改鋳によって貨幣の実質価値が下がり、物価は更に高騰し激しいインフレーションを招いたことで庶民の生活は更に圧迫されることになってしまいます。
公武合体策
尊王攘夷派の封じ込めと桜田門外の変によって失墜した幕府の権威回復を目的として、信正は仁孝天皇の子女であった皇女和 宮を第14代将軍家茂に降嫁*¹させることを画策します。
朝廷側にも幕府への発言力を強化し、攘夷の断行を促すという目的があったため、両者の利害が一致し、1860年には和宮の降嫁が決まり、翌年には江戸城で婚儀が執り行われました。
こうした朝廷と幕府の結び付きを強めようとした動きを公武合体(策)と言います。
*¹降嫁…皇女や王女が皇族・王族以外の男性に嫁ぐこと。
攘夷派の活発化
開国後から活発化した攘夷派の運動は、明治維新までの間にいくつもの外国人襲撃事件という形で表れます。
安藤信正が老中在職中に発生した主な外国人襲撃事件には次の2つがあります。
- ヒュースケン暗殺
- 東禅寺事件
1860年*¹、アメリカ総領事ハリスの通訳を務めていたヒュースケンを攘夷派の薩摩藩士が襲撃・殺害します。
また、1861年には攘夷派の水戸藩の脱藩浪士が高輪のイギリスの仮公使館を襲撃する東禅寺事件も発生しました。
*¹暦の違いによって1861年と表記される場合もあります。
正確な日付は万延元年12月4日(1861年1月14日)です。
坂下門外の変
物価高騰対策や公武合体策を進めた安藤信正でしたが、その政策、特に和宮の降嫁が尊王攘夷派の強い反発を招きます。
その結果、1862年に尊王攘夷派の水戸藩の浪士に江戸城の坂下門外で信正は襲撃され、殺されこそしなかったものの背中に傷を負ってしまいます*¹。
この事件を坂下門外の変と言います。
この事件が契機となって、信正は同年に失脚することになったのです。
*¹「背中の傷は武士の恥だ」とどこかの海賊狩りの言ったような批判が信正に出ました。
背中の傷というのは主に逃げる時に付くものだったからです。
この他に信正は女性問題やハリスとの収賄問題の噂もあったため、失脚に繋がることになります。
まとめ
それでは、今回の内容を年表でまとめていきましょう!
1858年 | 井伊直弼の大老就任 |
第14代将軍に徳川家茂が就任 →南紀派の勝利 | |
安政の大獄(~59) →一橋派を中心に100名以上が処罰される | |
1860年 | 桜田門外の変 →井伊直弼が暗殺される →以降の幕政は安藤信正が主導 |
五品江戸廻送令 | |
万延貨幣改鋳 | |
第14代将軍家茂への皇女和宮の降嫁が決定 | |
ハリスの通訳ヒュースケンが暗殺される | |
1861年 | 東禅寺事件 →イギリスの仮公使館を攘夷派が襲撃 |
家茂と和宮の婚儀が江戸城で執り行われる | |
1862年 | 坂下門外の変 →安藤信正は失脚 |
次回は大政奉還までの流れについて一気にまとめていきたいと思うので、更新をお待ちください。