皆さん大変お久しぶりです。
約4か月ぶりの更新となりましたが、改めてよろしくお願いします。
さて、以前までは各教科をバランス良くやってきましたが、これからしばらくは日本史・世界史等の歴史科目に特に絞ってやっていきます。
今回は元寇・蒙古襲来とそれに対する鎌倉幕府の対応等についてを解説していきたいと思うので、頑張っていきましょう!
この講座の難易度は★★★☆☆です。
元の建国
1206年、チンギス=ハン(成吉思汗)がモンゴル高原を統一し、即位したことでモンゴル帝国が成立します。
その後、チンギスは他国への征服戦争を繰り返して次々と支配地域を拡大していきました。
チンギスの後を継いで1260年に即位した孫のフビライ(勿必烈)=ハンも周辺地域を征服して支配地域を更に拡大していき、1271年には国号を元へと改称します。
この一連の征服の中で、1259年には高麗、1276年*¹には当時の中国の王朝である南宋も降伏させ、朝鮮半島や中国全土を掌握し、元は当時の世界人口の半分以上を支配する一大帝国へとなったのです。
*¹南宋の残存勢力は後に崖山の戦いで壊滅されたことで、1279年に南宋は滅びてしまいました。
元寇・蒙古襲来
1268年、フビライ=ハンは高麗を通じて日本に国書をもたらし、元への朝貢と服属を要求します。
大帝国「元」から小国の島国である日本への要求、断ったらどうなるか分かりません。
しかし、当時の執権であった北条時宗がこれを「だが断る」と拒否したため、フビライは日本を武力併合するために1274年と1281年の2回に渡って日本へと侵攻してきたのです。
この出来事を元寇または蒙古襲来と言います。
先に解説したように、元は当時の世界人口の半分以上を支配する大帝国だったので、小さな島国の日本にとってこれがどれほど恐ろしいことかは想像に難くないでしょう。
『ドラゴンボール』で言ったらフリーザ様にクリリンが挑むような絶望感です。
ちなみに、呼び方こそ違いますが、元寇と蒙古襲来のどちらも同じ出来事を指していることに注意しましょう。
元寇=蒙古襲来
それでは次に、この大帝国「元」の侵攻を日本はどう凌いだのかを次に見ていきましょう!
文永の役
元への朝貢と服属を拒否した日本に対して、フビライは1274年(文永11年)に博多湾へ3万人以上の兵士を引き連れて攻め入ってきます。
この出来事を文永の役と言います。
この絵からも分かるように、日本は元軍の集団戦法や毒矢・てつはう*¹などの兵器に苦戦しましたが、九州の武士達を中心に奮戦し元を何とか撤退させることに成功したのです。
ちなみに、上の絵で騎馬に跨って元軍と戦っている武士は竹崎季長という肥後の御家人の一人で、この絵も彼が書かせたものと言われています。
*¹てつはう…現代でいう手榴弾のような殺傷能力を備えた炸裂弾。
かつては存在自体が疑問視されていたが、2001年に長崎県の鷹島海底遺跡から実物が出土した。
文永の役後の鎌倉幕府の対応
文永の役による元軍の侵攻を受けて、鎌倉幕府は主に以下の3つの対応を行います。
- 異国警固番役を制度化
- 博多湾沿岸に防塁(石築地)を設置
- 長門探題を設置
幕府は、九州地方の御家人を引き続き異国警固番役へと動員するために1275年に異国警固番役を制度化し、翌年1276年には長門国の異国警固番役を指揮する機関として長門探題を設置します。
これは軍事機構の整備といった感じですね。
しかし、軍事機構を整備するだけではなく、元軍の更なる侵攻に備えるためには防衛設備も必要です。
島国である日本を元が攻めるためには海上から上陸する必要がありますよね?
つまり、上陸そのものを阻止するか上陸したところを迎え撃つのが効果的なわけです。
そこで幕府は、長門探題を設置した同年1276年に博多湾沿岸に高さ約3m程の防塁(石築地)を築いたのです。
弘安の役
1281年、元軍は東路軍*¹と江南軍*²の二手に分かれて再び日本へと侵攻します。
この出来事を弘安の役と言います。
下の注釈にも書いてあるように、前回の文永の役を大きく上回る規模での大規模侵攻でしたが、元軍は不慣れな海上戦や暴風雨*³の影響で大きな損害を被り、再び撤退へと追い込まれます。
元軍がなんで海上戦が不慣れなのかと思う人もいるかもしれませんが、元の起源となるモンゴルなどの大陸の方では陸戦がほとんどで海上戦はほとんど行わないからです。
弘安の役以降もフビライは日本への侵攻を計画していましたが、国内の反乱等の対応に追われて3回目の侵攻が行われることはありませんでした。
日本は第二次世界大戦の敗戦でアメリカに占領されたことこそあれど、他国の植民地になったことは歴史上実は一度もありません。
当時の日本の勇敢な武士を始めとする人々の奮闘がなければ今の日本はなかったと考えると少し感慨深い気持ちになりますね。
*¹東路軍は元と高麗の連合軍から成る約4万人の軍勢でした。
*²江南軍は旧南宋軍から成る約10万人の軍勢でした。
東路軍約4万と合わせて合計約14万人となり、文永の役の4~5倍の規模での大規模侵攻でした。
*³文永の役や弘安の役において元軍に大きな損害を与えた暴風雨は神風と呼ばれることもあります。
元寇・蒙古襲来後の国内政治
得宗専制政治
弘安の役を退けた後、幕府は1293年に博多に鎮西探題*¹を設置するなど更なる元軍の侵攻へと備えていきます。
しかし、元寇・蒙古襲来において奮闘した多くの御家人が僅かな恩賞しか得られなかった²ので、幕府の政治に対して不満を抱く御家人も当然多くなります。
こうした不満が御家人や幕府との対立を引き起こしたのです。
1285年には有力御家人の安達泰盛が内管領*³の平頼綱(平禅門)と対立する霜月騒動が起こり、敗れた安達泰盛の一族は滅亡してしまい、内管領の専制が一時的に強まります。
しかし、今度は頼綱の専制を恐れた9代目執権北条貞時が頼綱と対立して1293年に平禅門の乱が起こり、頼綱は敗死してしまいます。
この一連の過程で得宗*⁴家の権力が大幅に強化され、得宗専制政治と呼ばれる体制が確立されたのです。
鎌倉幕府と言えば、初代将軍の源頼朝やその妻である北条政子のイメージが強い人も多いと思いますが、実際は長い期間、北条幕府と言っても差し支えないくらいに執権・得宗が権力を握っていたというわけですね。
*¹西国の防備や統治強化を目的として設置され、北条家一門が任命されました。
*²国内での戦いなら活躍した御家人に相手方の土地や富を与えるなどの恩賞を与えることもできますが、今回は日本国外からの侵攻に対する防衛戦だったので、そもそも与えられる恩賞がほとんどなかったということもあります。
*³内管領…得宗の家臣である御内人の筆頭であり、寄合の構成員の一つ。
*⁴初代執権の北条時政、2代目執権義時の嫡流から成る北条宗家の家督(跡取り)。
時政・義時・泰時・経時・時頼・時宗・貞時・高時の9代が歴代の得宗。
永仁の徳政令
御家人達は、元寇・蒙古襲来によって番役の負担が増加した一方で、十分な恩賞は与えられませんでした。
また、当時の相続は分割相続だったため、所領が細分化されてしまったことや借上による所領の代官請によって所領が質入れ・売買されてしまった*¹ことで、御家人の多くが困窮していたのです。
そこで、1297年(永仁5年)に幕府は永仁の徳政令を発令することで、御家人の救済を図ろうとします。
永仁の徳政令の主な内容は以下の3つになります。
- 御家人による土地の質入れと売買を禁止
- 売却されてしまった所領を無償で返還する
①売却した相手が御家人の場合→売却後20年を経過した場合は返還されない
②売却した相手が非御家人や凡下*²の場合→年限に関係なく無償で返還される - 御家人の金銭貸借に関する訴訟は受理しない
永仁の徳政令は日本で初めて出された徳政令*³でした。
しかし、結果的にはこの徳政令によって借上はお金を貸すことを渋るようになって経済は混乱してしまい、幕府への不満が高まるという結果になってしまったのです。
ちなみに、鎌倉幕府以降の室町幕府や江戸幕府等でもこうした徳政令が出されましたが、多くの場合、徳政令が出される頃にはその政権は末期状態にあるということを覚えておきましょう。
徳政令が出された場合、その政権が末期状態にあることを示唆している
*¹借上とは中世日本における高利貸付(高い利息をつけてお金を貸し付けること)を行う金融業者のことで、御家人達は弁済のために借上を所領の代官に任命することもありました(代官請)。
しかし、最悪の場合はそのまま土地を奪われてしまうケースもあり、永仁の徳政令が出されたのにはこうした土地の質入れや売買を防止するのも大きな目的の一つでした。
*²凡下…武士以外の農民や商工業者などの庶民のこと
*³徳政令は「桃太郎電鉄」というゲームに徳政令カードというものがあるので分かる人も多いかもしれませんが、債権者(お金を貸した人)に債権放棄(債務免除)を命じるものです。
つまり、債務者(お金を借りた人)はお金を借りても返す必要が無くなりますが、債権者からしてみたらお金を貸したけど返ってこないということです。
当然、こんなのがまかり通ってしまったらお金を貸そうとする人は減ってしまうので、経済は混乱してしまうことが多いです。
まとめ
それでは、今回やった内容を年表でまとめていきましょう!
1206年 | チンギス=ハン即位 |
1259年 | 高麗がモンゴルに降伏 |
1260年 | フビライ=ハン即位 |
1268年 | フビライ、高麗を通じて日本に国書をもたらす →日本への朝貢と服属を要求 |
1271年 | フビライ、国号を元へと改称する |
1274年 | 文永の役 |
1275年 | 異国警固番役を制度化 |
1276年 | 元が南宋を降伏させる |
博多湾沿岸に防塁を設置 | |
長門探題を設置 | |
1279年 | 元が南宋を滅ぼす |
1281年 | 弘安の役 |
1285年 | 霜月騒動 →有力御家人の安達泰盛の一族が滅亡 →内管領平頼綱の専制が強まる |
1293年 | 鎮西探題を設置 |
平禅門の乱 →平頼綱が敗死 →得宗家の専制が強まる →得宗専制政治の確立 | |
1297年 | 永仁の徳政令 |