第一次世界大戦後の日本経済は、戦後恐慌、金融恐慌、昭和恐慌といった不況の連続です。
それに対して、その時の内閣が様々な対応を取っていますが、これがまた覚えることが多くて整理しにくいという人も多いと思います。
そこで、この記事では、第一次世界大戦後の日本経済の変遷を解説していきたいと思います。
覚えることが多くて大変ですが、一つ一つの要点を押さえて整理していきましょう!
この講座の難易度は★★★☆☆です。
戦後恐慌
第一次世界大戦の大戦景気によって世界1位の紡績国にまでなった日本の好景気は、終戦によって終わることになってしまいます。
原因は、ヨーロッパ諸国が生産市場に復帰した事で、大量の余剰生産物が生まれるようになってしまい、綿糸・生糸の相場が暴落してしまったからです。
この暴落によって、日本は戦後恐慌に陥ってしまいます。
関東大震災
1923年9月1日、190万人が被災し、10万人以上の死者・行方不明を出した大地震、関東大震災が起きたことで、日本の経済には追い討ちがかかることになってしまいます。
この震災によって金融が停滞したことから、支払いができない震災手形が大量に発生してしまいました。
第二次山本権兵衛内閣の対応
関東大震災の僅か一週間ほど前に、首相の加藤友三郎が病死していたため、関東大震災が発生した際に日本は首相不在の状態でした。
そこで震災発生の翌日、シーメンス事件が原因で総辞職をした山本権兵衛が再び組閣を命じられ、震災対応を行うことになります。
第二次山本権兵衛内閣は、震災手形の大量発生を想定して緊急勅令によるモラトリアム(支払い猶予令)を出したり、政府が割引手形の損失補償をすることで対応します。
しかし、これによって富の蓄積をほとんど失っただけでなく、補償の対象となった震災手形の中には、悪質な不良債権が大量に混じってしまっていたことなどが原因で、後の金融恐慌に繋がることになってしまいます。
金融恐慌
1927年、大量の不良債権を抱えた震災手形の対応に当たっていた第一次若槻礼次郎内閣の蔵相片岡直温が衆議院予算委員会において、「本日正午東京渡辺銀行がとうとう破綻いたしました」と実際は破綻していないのにも関わらず、このような失言をしてしまいます。
この失言によって戦後恐慌から続いていた金融不安が爆発し、預金者が預金を引き出すために銀行に殺到する取付け騒ぎが起きたことから、東京渡辺銀行や中小銀行が相次いで休業に追い込まれてしまい、金融恐慌が始まることになります。
この金融恐慌によって、大戦景気で成り上がった多くの成金や中小企業が倒産することになってしまいました。
その象徴的な出来事の中に、鈴木商店と台湾銀行の破綻と休業があります。
台湾銀行は、大戦景気で成功した鈴木商店に多額の融資をしていましたが、鈴木商店の経営が戦後恐慌や関東大震災によって悪化してしまったことで、大量の不良債権を抱えることになってしまいます。
その最中にこの金融恐慌が起きたことによって台湾銀行は休業、融資を受けられなくなった鈴木商店も破綻してしまったのです。
この出来事を受けた第一次若槻礼次郎内閣は、台湾銀行を救済するための緊急勅令を出そうとしましたが、枢密院によって否決されてしまい、そのまま総辞職することになります。
田中義一内閣の対応
総辞職した第一次若槻礼次郎内閣に代わって、当時立憲政友会の総裁だった田中義一が内閣を組閣します。
田中義一内閣の蔵相高橋是清は、直ちに関東大震災の時と同じように緊急勅令による3週間のモラトリアム(支払い猶予令)を出し、数日間銀行の一斉休業を行います。
この間に片面だけ印刷した200円札を臨時で約500万枚増刷して、日銀から各銀行に多額の救済融資を行い、この200円札を各銀行の店頭に並べることで、預金者を安心させ、金融恐慌の沈静化に成功したのです。
昭和恐慌
1929年にアメリカのウォール街で起こった株価の大暴落を発端として世界恐慌が始まります。
世界恐慌の影響は日本も例外ではなく、翌1930年には世界恐慌の余波によって昭和恐慌が起こってしまいます。
ちなみに、世界恐慌については別の記事で詳しく解説しているので、興味がある方はこちらの記事も是非見てみてください!
また、1929年、張作霖爆殺事件が原因で総辞職した田中義一内閣に代わり、立憲民政党総裁の浜口雄幸が内閣を組閣します。
浜口は蔵相に井上準之助を任命し、内外からの激しい反対を押し切って金解禁を実施し、緊縮財政を推進していきます。
しかし、同時期に世界恐慌が起こってしまったことで、「台風の最中に窓を開く」と言われる最悪のタイミングでの金解禁となり、正貨である金が海外へ大量に流出し、輸出減少・輸入超過の状態に陥ってしまい、昭和恐慌の一因となってしまったのです。
犬養毅内閣の対応
満州事変をめぐって閣内不一致による総辞職をした第二次若槻礼次郎内閣に代わって、立憲政友会総裁の犬養毅が内閣を組閣します。
犬養は蔵相に金融恐慌を沈静化させた高橋是清を任命し、金輸出再禁止を行ったことで、日本は管理通貨制度へと移行したのです。
また、高橋蔵相はそれまで政府が行ってきた緊縮財政によるデフレ政策の方針をやめ、大量の赤字国債発行を行い、積極財政によるインフレ政策を推進していきます。
この政策によって、円相場が下落して円安となり輸出が急増したことで、日本は他の主要国よりも一足早く1933年には恐慌以前の生産水準へと回復し、恐慌を脱出することに成功したのです。
しかし、この円安を利用した輸出を欧米諸国は「ソーシャルダンピング*¹」であると批判し、日本に対抗するためにブロック経済を推進させたことで、日本も新たなブロックを作るためにアジアへの進出を目指すようになります。
これによって、「持てる国」と「持たざる国」の対立はさらに加速してしまい第二次世界大戦開戦の要因の一つとなってしまったのです。
*¹ソーシャルダンピング…国家もしくは社会的規模で行われる不当廉売のこと。
不当廉売によって他の適切な価格帯で販売やサービスを行う事業者が淘汰されてしまうため、法律などで規制されている。
金本位制について
今回の講座では金解禁や金輸出再禁止など金本位制に関わる用語が出てきました。
そこで、金本位制について一度おさらいしておきましょう。
まず、金本位制は、貨幣の価値が金によって裏付けられた通貨制度です。
この金本位制が成立するためには次の2つの条件を満たす必要があります。
- 金兌換自由
- 金輸出自由
この内、2の金輸出自由の条件は次の項目での話に関わるので、頭の片隅に置いておいてください。
そして、金本位制には次のようなメリットがあります。
- 外国為替相場の安定
- 国内物価の安定
- 自国通貨の信用向上
逆に、金本位制には次のようなデメリットがあります。
- 銀行の金兌換義務
- 柔軟な経済政策を実施できない
上に挙げたようなメリットがある一方で、金本位制では銀行に金との兌換義務があるため、発行される紙幣も中央銀行によって金との交換が保障された兌換紙幣になっています。
そのため、保有している金以上の紙幣を発行できず、柔軟な経済政策が実施できなくなるというデメリットがあるわけです。
明治時代以降の通貨制度の変遷
それではここで、明治時代に入ってからの日本の通貨制度の変遷を年表で確認していきましょう。
1871年 | 新貨条例 | 金銀複本位制 |
1880年代 | 松方財政 | 銀本位制 |
1897年 | 貨幣法 | 金本位制 |
1917年 | 第一次世界大戦 | 金輸出禁止 |
1930年 | 井上財政 | 金解禁 |
1931年 | 高橋財政 | 金輸出再禁止 |
金本位制には先に解説したようなメリットがあるため、日本は開国後に金本位制への復帰を目指しました。
しかし、まだ経済基盤が脆弱であったため、最初は金銀複本位制という名の実質銀本位制からのスタートでした。
その後、日清戦争に勝利して得た多額の賠償金のおかげで遂に金本位制に復帰することができました。
それから第一次世界大戦が起きたことで金の輸出が停止され、終戦後は今回紹介したように、恐慌が続いたため、金本位制へは長らく復帰することができませんでした。
そして浜口内閣で金解禁が遂に行われましたが、世界恐慌と同時に行われたことから正貨の金が大量に流出してしまったため、犬養内閣で金輸出再禁止となったのです。
この一連の流れは、明治以降の日本経済の変遷を辿る上で大きな指針となります。
そのため、今回の講座でやった内容と合わせて、この流れを押さえて日本経済史を整理していきましょう!
まとめ
今回は第一次世界大戦後の日本経済についてまとめてきました。
度重なる恐慌や関東大震災もあり、日本経済が苦しい時だったので覚える事も多いですが、各内閣の対応と通貨制度の変遷に注目することで、少しは整理しやすくなるはずです。