桓武平氏について徹底解説!|桓武天皇・将門や清盛まで徹底解説!【日本史】

桓武平氏まとめ 解説

今回の講座は桓武平氏がテーマです。

清和源氏と並んで平安時代の重要人物が多い桓武平氏についてを試験での頻出事項を中心に徹底解説をしていきます!

この講座を終えれば桓武平氏についての理解度がグンと深まること間違いなしです!

Homura
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この講座の難易度は★★★★☆です。

桓武平氏とは?

そもそもかん平氏って何なの?という人もいると思うのでそこから解説をしていきましょう。

まずは桓武平氏を理解する上で重要なキーワードである臣籍降しんせきこうについてを見ていきましょう!

臣籍降下

臣籍降下皇族が姓を与えられて臣下に下ること

現代日本の皇族もそうですが、皇族には姓(苗字)がありません。

そのため皇族がその身分を離れて臣下に下る時には姓が与えられることになります。

比較的最近の例で言えば秋篠宮文仁あきしののみやふみひと親王の第一子女である眞子まこ様が室圭むろけいさんと結婚して小室眞子という名前になりましたね。

これも臣籍降下の例ですが、現代では降下という言い方は不適切だということで、皇籍離脱という表現が用いられます。

さて、話を戻して古代において臣籍降下が行われる理由としては色々挙げられますが特に多いのは、皇位継承権の可能性がない皇子・皇女が財政を圧迫したことや皇族の縛りを抜けた方が生活が安定すると考えた者が増えたことがあります。

臣籍降下した多くの賜姓貴族は没落していきましたが、その中でも平氏や源氏などは武士団を形成して力を付けていったというわけです。

桓武平氏とは?

桓武平氏は臣籍降下により「平」の姓を与えられた氏族(平氏)の流派の中で、桓武天皇の子孫の流れを汲む氏族です。

平氏には大きく分けて4つの流派があり、桓武平氏はその一つというわけです。

更にその桓武平氏の中でも更に細かく流派が分かれますが、今回は頻出事項である高望たかもちの流れを特に解説していきましょう!

平氏の流派

桓武平氏の頻出事項を徹底解説!

それでは桓武平氏とは何なのかを理解したところで、早速桓武平氏の人物達について徹底解説していきましょう!

桓武平氏の家系図

まずは今回見ていく桓武平氏の家系図を確認していきます。

桓武平氏の家系図

圧縮したので少し見にくいかもしれませんが、今回扱っていくのはこれらの人物です。

何となく登場人物の名前を見たら次はそれぞれの人物をもう少し掘り下げていきましょう!

桓武天皇

桓武天皇は第50代天皇であり、桓武平氏の祖となった人物です。

桓武天皇の代表的な政策は以下になります。

◆遷都
長岡ながおか遷都(784年)
平安京遷都(794年)

◆令外官設置
せいたい将軍設置(794年)
勘解由使かげゆし*¹設置(797年前後)

◆その他政策
蝦夷えみし征討の開始(788年~)
健児こんでいの採用(東北・九州などの地方は除く)(792年)
すい率*²の軽減&雑徭ぞうよう*³を60日から30日へ半減(795年)
畿内の班田を六年一班から12年(一紀)一班にする(801年)
徳政論争*⁴(805年)

桓武天皇の政策で絶対に覚えておきたいのが794年の平安京遷都です。

「794(鳴くよ)うぐいす平安京」という有名な語呂合わせもありますが、これを行ったのが桓武天皇です。

当初は長岡京への遷都を考えていましたが、天災や身内の不幸・既存勢力の排除など諸々の事情から平安京へと遷都することになります。

次に押さえておきたいのが蝦夷征討の開始と征夷大将軍の設置ですが、この2つについては先日詳しい解説記事を挙げたのでそちらを参照してください。

この平安京遷都と蝦夷征討(東北経営)が桓武天皇の政策の二大柱となります。

健児こんでいは諸国の軍団や兵士を廃止する代わりに、諸国の郡司の優秀な子弟などを採用した軍制です。

これによって百姓の兵役負担が軽減し、その他の税の軽減などからも百姓の救済を重視した政策を行おうとしていたことが窺えますね。

その他の細かい用語については以下の注釈で解説しているので、そちらを参照してください。


*¹勘解由使…国司交代時の引き継ぎ文書である解由げゆ状を監査する役職。

*²公出挙…律令制における雑税の一つであり、簡単に言えば国家による稲の強制貸付。稲を高利で貸し付けて秋の収穫後に利子付きで回収する。元々は農業の奨励として位置付けられていたが、後に雑税として国家の重要な収入源の一つになる。

*³雑徭…律令制における労働税の一つであり、地方で行う年間60日以下の労役。

*⁴徳政論争…桓武天皇が行わせた藤原つぐ菅野すがののみちの天下の徳政に関する論争。緒嗣は平安京造営と蝦夷征討が人民を苦しめているため停止すべきであると提言し、桓武天皇はこの提案を受け入れて平安京の造営と蝦夷征討を中止することにした。

平高望~伊勢平氏のはじまりまで

ここでは平高望から平貞盛までの人物を見ていきたいと思います。

まずはそれぞれの人物の概略をまとめたので、これと先程の家系図を見てそれぞれの人物が何をした人なのかのイメージを掴みましょう!

桓武平氏の家系図

高望たかもち…桓武天皇の子孫。臣籍降下して平(たいら)姓を名乗るようになる。

くに…高望の長男であり、貞盛の父。平将門の乱で将門に殺害される。

将門まさかど平将門の乱(935年~940年)を起こすが貞盛らに鎮圧される。

貞盛さだもり…国香の子。藤原秀郷ひでさととともに平将門の乱を鎮圧する。

平忠常平忠常の乱(1028年~1031年)を起こす。源氏の関東進出のきっかけとなる。

平高望については臣籍降下のところでも触れたので、ここでは将門・貞盛・忠常の3人に注目して見ていきましょう。

平将門の乱

平将門は関東を本拠地とする豪族であり、935年から40年にかけて平将門の乱を起こします。

最初は平氏一族内での抗争でしたが、徐々に関東一帯を巻き込むほどの争いへと発展していき、この過程で将門はやがて関東全域を支配するようになり、939年には自らを「新皇しんのう」と称します。

「新皇」は将門が「しい天」という意味合いで使った自称のようなものです。

しかし、この争いの中で国府を蹂躙じゅうりんしたことから朝廷からほん人として扱われることになります。

謀叛という言葉は聞き慣れない人もいるかもしれませんが、現代の言い方で言えば国家反逆罪です。

そんな将門も最終的には将門が殺害した国香の子である平貞盛と貞盛の母方の叔父である藤原秀郷らによって討伐されたことで乱は鎮圧されることになります。

この後貞盛の子らは伊勢を拠点として伊勢平氏と呼ばれるようになり、後に全盛を迎える「平家」へとなっていきます。

ちなみに、この平将門の乱は同時期に起こった藤原純友すみともの乱(939年~941年)*¹と合わせて承平じょうへい天慶てんぎょうの乱とも呼ばれ、それぞれ平氏と源氏が勢力を強めるきっかけとなったので合わせて覚えておきましょう!

余談ですが、将門は死後平安京でさらし首となり、その恨みから後に日本三大怨霊おんりょう*²の一人に数えられるほどの怨霊になったとされています。

その怨念は非常に強く、さらし首となった将門の首は何か月経っても非常に恐ろしい形相のままであり、やがて身体を探して関東へと飛んで行ったという伝説があるほどです。

そんな曰くつきの将門の首が祀られているとされる東京都千代田区大手町にある将門塚は移転や区画整理の工事をしようとする度に不慮の事故が起こったため中止となり、現在でも残っています。


*¹藤原純友の乱…元々は海賊の取締りを行う国司だったが、後に自身が海賊の頭目になった藤原純友が振島ぶりしま(現在の愛媛県の西の方にある瀬戸内海の島)を拠点に起こした反乱。最終的にはつい捕使ぶし野好古ののよしふる・源経基つねもとらによって乱は鎮圧された。

*²日本三大怨霊…菅原道真すがわらのみちざね・平将門・とく天皇(上皇)を指す。この3人の内、菅原道真は怨霊としても有名ですが、同時に学問の神様としても知られており、受験生にはありがたい神様でもあります。ちなみに『呪術廻戦』という私も大好きな漫画・アニメで出てくる五条先生や乙骨憂太もこの日本三大怨霊の一人である菅原道真の子孫という設定です。

平忠常の乱

平忠常が対立していた安房あわ国*¹受領を殺害した事をきっかけに房総三国*²を巻き込む大規模な反乱へと発展していきます。

これが平忠常の乱(1028年~1031年)です。

朝廷は追捕使を派遣するも乱は中々鎮圧できず、3年の月日が流れた頃に追捕使に頼信よりのぶ*³が任命されたことで忠常は戦わずして降伏し、ようやく乱は平定されます。

この乱によって関東方面の平氏は力を落とした一方で、関東に源氏が進出するきっかけとなります。


*¹安房国…現在の千葉県南部あたりの地域。

*²房総三国…ずさ下総しもうさ・安房の三国。三国合わせて大体現在の千葉県全域にあたる。

*³源頼信…河内源氏の祖であり、藤原道兼や道長にも仕えた非常に武芸に優れた人物であったと言われている。1008年頃にたち国の国司をやっていた頃に平忠常は頼信に鎮圧されたことで心服し家来となることを誓ったと言われており、これが平忠常の乱で3年も抵抗してきた忠常が、頼信が追捕使に任命された瞬間に戦わずして降伏した理由の一つと言われている。この乱の後、頼信は残された忠常の一族を守ることに尽力し、やがて源氏が関東方面で武士の棟梁とうりょうとしての地位を確立する地盤を築く。

平氏の中央政界進出

次は平正盛と忠盛のいわゆる平氏全盛の時代の礎を築いていった人物達を見ていきましょう!

桓武平氏の家系図

正盛まさもり…伊勢平氏の正統。北面ほくめんの武士*¹となり、源義親よしちかの乱(1107年~1108年)を平定する。

忠盛ただもり…正盛の子であり清盛の父。伊勢平氏として初めて昇殿を許される。

平正盛と忠盛は平将門の乱を鎮圧した貞盛の子孫であり、伊勢平氏の流れを汲む一族でした。

正盛は伊賀いが*³の荘園を寄進し、白河上皇の院政へと接近していき、源義親*⁴の乱(1107年~1108年)を鎮圧することで更に頭角を現します。

正盛の子である忠盛も同様に白河・鳥羽院政の懐刀として更に力を付けていき、やがては伊勢平氏として初めて昇殿を許されるほどになります。

このように正盛と忠盛は後の清盛の代における平氏政権への礎を築いていったのです。


*¹北面の武士…僧兵のごうに対応するために上皇の身辺を警備する武士のこと。

*²太政大臣…律令制における朝廷の最高職であり、行政の最高権力者。清盛は武士として初めて太政大臣に任命され平氏政権を築いた。

*³伊賀…現在の三重県西部あたりの地域。

*⁴源義親…前九年合戦・後三年合戦で活躍した源義家よしいえの次男。非常に武勇に優れていた人物と言われ、それまでさほど武勇のなかった正盛に討たれたことには疑問を投げかける人もいる。

平氏全盛の時代

次はいよいよ平氏全盛の時代である平氏政権を築いた清盛きよもりについてを見ていきましょう!

まずは大まかな要点の確認をしていきます。

桓武平氏の家系図

◆清盛に関する出来事の年表
保元ほうげんの乱(1156年)
へいの乱(1159年)
太政大臣就任(1167年)
鹿ししたにの陰謀*¹(1177年)

◆清盛の政治
娘のとく建礼門院けんれいもんいん)を高倉天皇の中宮にする(1172年)
白河しらかわ法皇を幽閉して院政を停止させる(1179年)
福原京ふくはらきょう遷都(1180年)
おおだのとまり修築
宋銭(銅銭)を大量に輸入して貨幣経済を推進

要点を押さえたら①保元の乱、②平治の乱、③平氏政権、この3つについて少し深い解説をしていこうと思います。

ただし、保元の乱と平治の乱はともに平氏が大きく力を付けるきっかけとなった戦いですが、対立関係や経緯などはかなり複雑になっています。

全てを事細かに説明すると混乱してしまうと思いますし、細かい対立関係まで試験で聞かれることも少ないと思います。

そのため、今回の記事では簡単な対立関係の紹介に止めておきます。

詳しい解説はまた院政に関する解説記事を出す際に出そうと思っているので、よろしくお願いします。


*¹鹿ケ谷の陰謀…藤原成親なりちか俊寛しゅんかんらが平家打倒を計画したが事前の密告によって失敗した事件。近年では本当に平家打倒の計画があったかを疑問視する声もあり、平清盛が院近臣の排除や延暦寺との衝突を回避するためにでっちあげた疑獄事件の可能性が指摘されている。

保元の乱

保元の乱は天皇家・藤原氏・源氏・平氏の様々な勢力がそれぞれの陣営に分かれて戦っています。

それぞれの対立関係は大まかには以下の表の通りです。

勝者敗者
天皇家後白河天皇(弟)崇徳上皇(兄)
藤原氏藤原忠通ただみち(兄)藤原頼長よりなが(弟)
源氏義朝よしとも(兄)為義ためよし(父)
為朝ためとも(弟)
平氏平清盛(甥)忠正ただまさ(叔父)
家弘いえひろ(傍流*¹)
その他福門院ふくもんいん(皇后*²)
信西しんぜい(藤原道憲みちのり

保元の乱は皇位継承問題や摂関家での内輪揉めなどの理由からそれぞれの勢力が後白河天皇と崇徳上皇方に分かれて戦いましたが、この表を見ても正直なんのこっちゃって感じだと思います。

そのため今回は超ざっくりと次の3つのポイントだけを覚えておきましょう!

保元の乱(1156年)の押さえるべきポイント!

後白河天皇と崇徳上皇が争った!
後白河天皇・平清盛・信西が勝った!
朝廷の争いに武士が関与したことで武士の存在感が増した!

「これだけで大丈夫!?」と思った人もいるでしょうが、大丈夫です。

先程も言ったように保元の乱の細かい経緯や対立関係を聞かれることはほとんどないです。

そのため、覚えておくべきは「保元の乱」という用語(欲を言えば1156年という年号も)と上の3つのポイントだけでとりあえず十分です。


*¹伊勢平氏の祖である平維衡これひらの子である正度まさのりの子孫が正統であり、清盛や忠正は正度の子孫です。しかし、家弘は正度の弟である正済まさなりの子孫であるため、いわば本家ではなく分家というわけです。

*²美福門院は鳥羽法皇妃であり、第76代天皇この天皇の母。

平治の乱

平治の乱は大きく分けて2つの戦いに分かれています。

それぞれを前編と後編とした時の対立関係は以下の通りです。

◆前編(信西vs反信西派)

勝者敗者
院近臣藤原惟方これかた信西(藤原道憲)
藤原信頼のぶより
源氏義朝よしとも
平氏平清盛*
*信西が敗死したとき、清盛は熊野詣の最中だった。

◆後編(惟方vs信頼)

勝者敗者
院近臣藤原惟方藤原信頼
源氏源義朝
平氏平清盛

この2つの戦いを簡単に言ってしまえば、保元の乱に勝利して大きな権力を握った信西とそれに反発する勢力同士の戦いが前編前編の戦いで勝利した反信西派内での内輪揉めが後編です。

そして、今回平治の乱で押さえておきたいポイントは以下の3つです!

平治の乱(1159年)の押さえるべきポイント!

①戦いによって有力家臣や武士の多くがいなくなった
平治の乱の後、平清盛が大きく影響力を強めた

平治の乱での戦いによって、院近臣や源義朝をはじめとした多くの有力な家臣や武士がいなくなります。

また、後編の戦いで勝利した藤原惟方も後に後白河上皇と対立したことで失脚したので、結果として平清盛の政治的影響力が非常に強まり、平氏政権の成立へと繋がっていくことになります。

ちなみに、平治の乱の際に義朝の子であった後の源頼朝よりともが伊豆に流刑となっています。

平氏政権

それではここでもう一度、先程見せた清盛に関する出来事と政治の内容をまとめたものを見ていきましょう!

◆清盛に関する出来事の年表
保元の乱(1156年)
の乱(1159年)
太政大臣就任(1167年)
鹿の陰謀(1177年)

◆清盛の政治
娘のとく建礼門院けんれいもんいん)を高倉天皇の中宮にする(1172年)
後白河法皇を幽閉して院政を停止させる(1179年)
福原京ふくはらきょう遷都(1180年)
おおだのとまり修築
宋銭(銅銭)を大量に輸入して貨幣経済を推進

保元の乱・平治の乱で大きく影響力を強めた平清盛が1167年に太政大臣に就任し、一族が高位高官に就いていったことで平氏全盛の時代へと入っていきます。

清盛は娘の徳子(建礼門院)を高倉天皇の中宮にして、その子である安徳あんとく天皇を即位させることで外祖父(現天皇のおじいちゃん)の地位を手に入れることで朝廷に対して更に大きな権力を握ります。

そのため清盛が朝廷に対して権力を握った手法は摂関政治のそれによく似ていますね。

また、福原京遷都は1180年の以仁王もちひとおうと源頼政よりまさの挙兵(しょう寿永じゅえいの乱/源平の争乱の始まり)に対する対応として行ったものですが、反対の声も大きかったため11月以降は京都に戻っています。

しかし清盛はこの挙兵の翌年の1181年、平氏への反撃が始まる最中に病死してしまいます。

これが清盛の道程です。

その他の政治や出来事については大体CHECKボックスの内容通りなので確認しておきましょう。

その他平氏の人物達について

最後に、家系図に載せていながら紹介していない平重盛しげもりとき、その他一部の平氏について簡単な補足説明をしていきます。

ここまでやってきた人物に比べたら重要度は落ちますが、覚えておけばあともう一歩上のレベルにいけるので、軽く確認しておきましょう!

平重盛…清盛の子であり、保元の乱・平治の乱でも活躍。内大臣に進み松内まつないと称される。

平時子…清盛の妻であり、徳子の母。壇ノ浦の戦いで安徳天皇を抱いて入水。

時忠ときただ…時子の弟。『平家物語』によれば「平家にあらずんば人にあらず」は彼の弁。

重衡しげひら…清盛の五男。南都焼き打ち(1180年)を実行し東大寺や興福寺(南都)を焼亡させる。

まとめ

何度も見せられていい加減見飽きてきたかもしれませんが、最後にまとめとしてもう一度だけ桓武平氏の家系図を確認しましょう。

桓武平氏の家系図

さて、今回は桓武平氏について徹底解説してきましたがいかがでしたか?

分量も多く、似たような名前ばかりで中々1回学習しただけでは理解できなかったかもしれません。

そういった方は「CHECK」と書かれたタブボックスの中の項目だけを見ると分かりやすいと思うので、最低限その部分だけは押さえるようにすると良いでしょう。

近い内に清和源氏についての解説記事も出そうと思っているので、しばしお待ちください。

それでは皆さんお疲れ様でした!

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