大御所時代|第11代将軍徳川家斉の治世【日本史】

徳川家斉 解説

大御所時代は寛政の改革と天保の改革の間を差し、第11代将軍徳川家斉の治世です。

その治世とはどのようなものだったのか、早速見ていきましょう!

ちなみに、前回の寛政の改革についてはこちらの記事にまとめてあります。

Homura
Homura

この講座の難易度は★★☆☆☆です。

大御所時代の特徴

おおしょ時代は一般的に、寛政の改革の中心人物であった松平定信が老中を罷免された1793年から第11代将軍徳川家斉いえなり*¹が死去する1841年までの約50年近くの期間を指します。

徳川家斉像
徳川家斉像(徳川記念財団蔵)

ただし、将軍職を第12代将軍の徳川家慶いえよしに譲って大御所として実権を握っていたのはわずか4年ばかりで大御所時代のほとんどは家斉が将軍に在職していた期間を指しているので注意してください。

また、大御所時代は当時の元号の文化時代(1804年~1818年)と文政時代(1818年~1830年)と重なるので、文化文政時代もしくは化政時代とも言われていて、庶民文化が花開いた時期でもあります。

今回の講座では時代の呼称はそんなに重要ではありませんが、文化史の方では重要になってきます。

そのため、化政文化と言われたらこの大御所時代と重なるということは頭の片隅に入れておいてくださいね。


*¹余談ですが、家斉は「俗物将軍」というあだ名をつけられています。
なぜかと言うと、側近に政治は任せて自分は大奥に入り浸って子作りに励んでいたからです。
儲けた子供の数はなんと50人を超えていて、この子供達を大名家と縁組させたことも幕府財政を圧迫した原因となっています。
本当に色々な意味でとんでもない男だったわけですね。

大御所時代の政策・施策

大御所時代の政策や施策で代表的なものは以下の表の通りです。

文政(文字ぶんじ)金銀鋳造出目(差額)による利益目的
関東取締出役を設置
(1805年)
関東の治安維持が目的
よせ組合くみあいを設置
(1827年)
近隣の村々の組合
関東取締出役の補助が目的
蛮社ばんしゃごく
(1839年)
幕府を批判した蘭学者を処罰

家斉は寛政の改革を主導した定信を罷免しましたが、寛政の改革で推進された緊縮財政自体は否定せずにむしろそのまま継続する姿勢を示します。

そのため、大御所時代の前期から中期にかけて政治の実権を握っていた定信の後任の松平信 明のぶあきららを寛政の遺老と言います。

やがて寛政の遺老達が病気や老齢を理由に政治から離れると、家斉は次第に贅沢な生活をするようになり、異国船打払令による海防費の増加も相まって幕府財政は圧迫されることになってしまいます。

ガミガミ小言を言ってくる先生や爺やのような人がいなくなってしまったので、歯止めが効かなくなってしまったわけですね。

叱る人がいなくなった人

文政金銀改鋳

文政金銀は元禄小判や元文小判のような金の含有量が低い質の低い貨幣への改鋳です。
目的は先の2つの貨幣と同様に、出目(差額)による利益が目的です。

この改鋳によって市場の通貨供給量は増加しましたが、後に物価高・インフレの原因にもなってしまいます。

関東取締出役と寄場組合の設置

無宿人や浪人の増加は寛政の改革の頃から問題になっていましたが、大御所時代にはそれが更に増加したことで関東の治安が悪化してしまいます。

そこで、1805年関東取締出役(かんとうとりしまりしゅつやく)を設置して治安維持に当たらせます。
つまり、関東取締出役は警察組織のようなものだったわけですね。

しかし、関東は幕領(天領)・私領・寺社領などが複雑に入り組んでいたため、人員不足になってしまい十分な活動ができない状態でした。

そのため、1827年寄場組合を設置します。

寄場組合は、領地の区別なく近隣の村々で作った組合のことで関東取締出役の補助を担いました。

蛮社の獄

1837年にアメリカの貿易船が貿易の交渉と漂流した日本人7名の送還を目的に浦賀に到着しましたが、異国船打払令に基づいて砲撃をしてその船を追い払ったモリソン号事件が起こります。

これに対して渡辺わたなべざん高野長英たかのちょうえい尚歯会しょうしかい(蛮学社中)の蘭学者が幕府の対外政策を批判します。

そのため1839年、幕府は言論弾圧のために、幕府を批判した蛮学社中のメンバーを投獄するなどの処罰を行い、投獄された渡辺崋山や高野長英はその後自害してしまいます。

この事件を蛮社の獄と言います。

渡辺崋山や高野長英については文化史の記事を書く機会があったら、その時に詳しく触れていきたいと思います。


*¹画像引用元:渡辺崋山 田原市博物館

*²画像引用元:高野長英記念館トップページ – 奥州市公式ホームページ

大塩の乱と生田万の乱

大雨による洪水や冷害が原因となって、1833年から1839年(1837年とする場合もあり)にかけて天保てんぽうの大飢饉が起こり、百姓一揆や打ちこわしが頻発してしまいます。

このように多くの民衆が困窮していたにも関わらず、1837年に第12代将軍として徳川家慶が就任する儀式のために大坂に集積された米が江戸へと廻送されることになります。

このことを儒教の仁に反すると怒ったのが大坂町奉行所の元りきで陽明学者でもあった大塩平八郎おおしおへいはちろうでした。

大塩平八郎
大塩平八郎像(大阪城天守閣蔵)

怒りが限界に達した大塩平八郎は自分の門弟20人余人と貧民を率いて1837年の2月に大坂で蜂起しましたが、半日ほどで鎮圧されてしまいます。

この事件を大塩平八郎の乱(大塩の乱)と言います。

「人は皆(1837)、2月に蜂起、大塩の乱」という語呂合わせで覚えるのも良いでしょう。

この大塩の乱が契機となって同年6月には越後国柏崎の方でも国学者の生田万いくたよろずが中心となって生田万の乱が起きます。

これらの乱はすぐに鎮圧されましたが、幕府の元役人や武士が蜂起したことは幕府に大きな衝撃を与え、幕府の権威が失墜していることを示唆していました。

大御所時代のまとめ

大御所時代は他の改革などとは異なり、年表でまとめていきたいと思います。

1793年松平定信が老中を罷免
→大御所時代の開始
1805年関東取締出役の設置
1827年寄場組合の設置
1833年~天保の大飢饉(~39年)
1837年第12代将軍に徳川家慶が就任
1837年2月大塩平八郎の乱(大塩の乱)
1837年6月生田万の乱
1837年モリソン号事件
1839年蛮社の獄
→渡辺崋山・高野長英らを処罰
1841年第11代将軍徳川家斉死去
→大御所時代の終了

大御所時代は、家斉自身が政治にあまり関心がなく側近に政治を丸投げしていたので、寛政の遺老達がいなくなった後はかなり緩い政治が敷かれていました。

それもあって庶民文化である化政文化が発展したわけですね。

しかし、幕府財政の悪化・天保の大飢饉・大塩の乱や生田万の乱・モリソン号事件を始めとした列強への対応などの問題が積み重なり、幕府の支配体制に揺らぎが出てきた時代でもあります。

そして、この積み重なった問題の対応に追われるのが次の天保の改革です。

天保の改革については、こちらの記事にまとめてあります。

また、今回の学習内容を復習できる問題もあるので是非挑戦してみてください!

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