江戸時代の享保の改革・寛政の改革・天保の改革を合わせて江戸の三大改革と言います。
今回は、三大改革の2番目、寛政の改革について解説していきたいと思います!
厳しい倹約と統制が特徴の改革なので、その点を意識しながら勉強していきましょう!
ちなみに、寛政の改革の前となる田沼時代はこちらの記事から見ることができます。
この講座の難易度は★★★☆☆です。
寛政の改革の特徴
寛政の改革は、老中松 平定信主導の下行われた改革です。
鎮国守国神社所蔵 天明7年(1787年)6月
期間は第10代将軍家治の死去によって田沼意次が失脚し、家斉の第11代将軍に就任に合わせて定信が老中に就任した1787年から老中を失脚する1793年までの約6年間になります。
寛政の改革の特徴は、「復古的理想主義」と「緊縮財政を基軸とした厳しい倹約と統制」にあります。
復古的理想主義は、8代目将軍吉宗の享保の改革を理想とし、幕府権威の回復を目指すものでした。
定信は吉宗の孫であったため、おじいちゃんの政治が目標だったわけですね。
そのため、改革の内容には享保の改革との共通点も多いです。
寛政の改革の内容
今回は社会・経済政策と思想・出版統制の2つに分けて改革の内容を見ていきたいと思います。
社会・経済政策
寛政の改革で行われた社会・経済政策の主なものは以下の表の通りです。
倹約令 (1787年) | 幕府財政の緊縮が主な目的 |
囲 米の制 (1789年) | 飢饉対策として社倉・義倉に米穀を備蓄 |
棄捐令 (1789年) | 旗本・御家人救済のために札差に 債権放棄等を命令(≒徳政令) |
旧里帰農令 (1790年) | 出稼ぎに来ていた百姓に帰農を奨励 農村の人口確保が主な目的 |
人足寄場の設置 (1790年) | 軽犯罪者や無宿人の収容・更生が目的 職業訓練等も施し社会復帰を促進 |
七分積金の制 (1791年) | 町入用*¹の節約分70%を積立させる 積立金は飢饉対策や社会保障の財源へ |
寛政の改革の社会・経済政策の特徴を表すキーワードは3つ、「倹約」「救済」「備蓄」です。
倹約は言うまでもないと思うので省略して、残りの2つのキーワードの説明をしていきましょう。
寛政の改革の直前には天明の大飢饉(1782年~1787年)が起きていたので、定信は米穀や金銭を備蓄し飢饉への対策に力を入れました。
その象徴が囲米の制・七分積金の制です。
そして、寛政の改革では社会福祉の充実に力を入れたことも大きな特徴です。
札差(金貸し)の借金に苦しむ旗本や御家人を救済するために出した棄捐令や軽犯罪者・無宿人を更生させるための人足寄場の設置などがそうです。
こうした社会福祉的な政策は今までの幕政ではあまり見られないものでした。
しかし、覚えておきたいのは、棄捐令のような徳政令が出されるときは大体幕政の中期から後期だということです。
鎌倉時代の永仁の徳政令や室町時代の嘉吉の徳政令などがその代表的な例でしたね。
徳政令は簡単に言えば、貸しているお金をそのままあげたことにしてくれということです。
皆さんがもし自分がお金を貸している立場だったら当然ふざけるなよと思うでしょう。
つまり、こんな無茶な事をお願いしなければやり繰りできない位財政が逼迫していることを示しているわけです。
こうした一連の政策によって幕政は一時的に引き締まりましたが、厳しすぎる倹約はやがて人々の不満へと繋がっていくことになりました。
*¹町入用…町人が負担している町の経費、町費とも言う。
思想・出版統制
寛政の改革で行われた思想・出版統制の主な内容は以下の表の通りです。
寛政異学の禁 (1790年) | 朱子学を正学とし、陽明学や古学を禁止 昌 平坂学問所を幕府直轄にした |
出版統制令 (1790年) | 洒落本の山東京 伝、黄表紙の恋川春町 版元の蔦屋重三郎らを処分 |
林子平を処罰 (1792年) | 幕府に対する政治批判を禁止 |
寛政異学の禁
寛政異学の禁は朱子学を正学として、その他の陽明学や古学を禁止するものであると表では説明しましたが、これだけではなぜ朱子学がOKで他が駄目なのか分からない人も多いと思います。
そのため、まずは朱子学・陽明学・古学についておさらいをしていきましょう。
朱子学も陽明学も古学も全て儒学の学派であり、それぞれの簡単な特徴は以下の表の通りです。
朱子学 | 大義名分論 | 身分関係や礼節を重視 |
陽明学 | 知行合一 | 知識と行動は分離不可能 |
古学* | 原典への復帰 | 朱子学・陽明学を批判 |
詳しくは文化史の記事をいずれ書いた際に触れたいと思うので、説明は簡単に済ませたいと思います。
最初の寛政の改革の特徴で説明したように、定信は幕府権威の回復を大きな目標の一つに据えていました。
つまり、幕府の封建的な支配体制をより強固なものにしたかったのです。
陽明学や古学は時勢批判の傾向が強い一方で、朱子学は上下関係や礼節を重んじる学派だったため、幕府の封建的な支配体制を正当化するものとして適していました。
そのため、幕府は朱子学を重視し、教育機関において朱子学以外を禁じたわけですね。
しかし、寛政異学の禁は元々幕府の教育機関に対してだけのものであり、全国的な禁止をするつもりはありませんでしたが、幕府の方針に諸藩が追随したため、結果的にこの方針が広がることになりました。
出版・思想統制
次は出版統制について見ていきましょう。
寛政の改革では出版や思想に対する統制が強まりましたが、理由は主に幕府に対する政治批判の抑制や風紀の維持でした。
この統制によって洒落本*¹の山東京伝や黄表紙*²の恋川春町、版元*³の蔦屋重三郎、『海国兵談』を著した林子平*⁴などが処罰を受けることになりました。
*¹洒落本…主に遊郭などの遊所での遊びについて書かれた短編の遊里小説。
山東京伝の『仕懸文庫』などが代表作
*²黄表紙…草双紙と呼ばれる絵入りの本の一種で、大人向けの読み物。
恋川春町の『金々先生栄華夢』などが代表作
*³版元…出版と販売を兼ねた本屋。
*⁴林子平…田沼時代にも出てきた工藤平助らと交友があり、ロシアの南下政策による脅威を防ぐために海防の充実を訴えましたが、それは同時に幕府の軍事体制に対する批判でもあったため処罰されてしまいました。
代表的な著作に『海国兵談』『三国通覧図説』などがあります。
尊号一件
第118代天皇である後桃園天皇が崩御した際に後継となる皇子がいなかったため、正徳の治で創設された閑院宮家から第119代天皇として光格天皇が即位することになります。
しかし、この即位によって2つの問題が起こってしまいます。
1つ目は、光格天皇が父である閑院宮典人親王よりも位が上になってしまった点。
2つ目は、禁中並公家諸法度によって親王の序列が摂関家よりも低くなっていたため、自分の臣下である摂関家よりも父の地位が低くなってしまった点。
この2点を光格天皇は不満に思ったわけです。
光格天皇(子) > 摂関家(臣下) > 閑院宮典人親王(父)
しかし、禁中並武家諸法度の改正は幕府との対立を生むことは明らかだったため、本来天皇の地位を後継者に譲位した天皇(上皇)に贈られる太 上天皇号(尊号)を父に贈ろうと考えます。
この承認を幕府が求められた際に、朱子学を重んじていた定信が、皇位についていない天皇の父に尊号を贈ることに反対し、朝廷との議論を重ねましたがとうとう実現することはなく、関係する武家伝奏*¹を処罰することで事態は収拾されます。
この事件を尊号一件(1789年~1793年)と言います。
一方で第11代将軍家斉も同時期に将軍についていない父一 橋治済に将軍隠居後の称号である「大御所」の尊号を贈ろうと考えていました。
しかし、尊号一件で同じような内容を拒否してしまっていた定信は、これも拒否せざるをえなくなってしまい、結果として家斉との関係が悪化することになってしまいます。
この出来事や寛政の改革における厳しい倹約や統制で不満が高まったことで、1793年に定信は老中を罷免されてしまい、わずか6年での退任となってしまったわけですね。
*¹武家伝奏…幕府と朝廷の連絡係のような役職
まとめ
最後に、今回の表で赤字で示した特に重要な施策だけを一覧表にしたので、これで今回の内容をおさらいしておきましょう!
囲米の制 (1789年) | 飢饉対策として社倉・義倉に米穀を備蓄 |
棄捐令 (1789年) | 旗本・御家人救済のために札差に 債権放棄等を命令(≒徳政令) |
旧里帰農令 (1790年) | 出稼ぎに来ていた百姓に帰農を奨励 農村の人口確保が主な目的 |
寛政異学の禁 (1790年) | 朱子学を正学とし、陽明学や古学を禁止 昌平坂学問所を幕府直轄にした |
出版統制令 (1790年) | 洒落本の山東京伝、黄表紙の恋川春町 版元の蔦屋重三郎らを処分 |
七分積金の制 (1791年) | 町入用の節約分70%を積立させる 積立金は飢饉対策や社会保障の財源へ |
こう見ると、寛政の改革は本当に倹約と統制であることが分かると思います。
しかし、こうした政策を採用した理由は、定信の思想や天明の大飢饉の発生などが関わっていたのです。
皆さんも復習をする際には、以前の記事で書いたように、それぞれの政策をただ丸暗記しようとするのではなく、なぜその政策を行ったのかという理由までしっかり押さえておくようにしましょう。
その方が丸暗記より結果的に覚えやすいからです。
寛政の改革の続きとなる大御所時代については、こちらの記事にまとめてあります。