享保の改革|米将軍と呼ばれた8代目将軍吉宗の改革【日本史】

徳川吉宗 解説

江戸時代の享保の改革・寛政の改革・天保の改革を合わせて江戸の三大改革と言います。

今回は、三大改革の先駆となった享保の改革について解説していきたいと思います!

享保の改革は内容が非常に豊富で多岐に渡っているので、一つ一つ丁寧に押さえていきましょう!

ちなみに、前回の内容となる文治政治についてはこちらの記事にまとめてあります。

Homura
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この講座の難易度は★★★☆☆です。

享保の改革の特徴

享 保きょうほうの改革は、第8代将軍徳川吉宗よしむね主導の下行われた改革です。

徳川吉宗

期間は吉宗が将軍職に就任した1716年から将軍職を長男家重いえしげに譲る1745年までとするのが一般的です。

しかし、家重が言語不明瞭*¹だったため、1751年に自身が亡くなるまで大御所として政治の実権を握っています。

享保の改革の大きな課題は「貨幣経済の発展によって悪化した幕府・諸藩の財政再建」です。

しかし、身分にとらわれない人材登用を行い、行政改革、都市改革、経済政策まで幅広い分野で行われた改革だったのです。
そのため、享保の改革は後に行われた改革のお手本にもなりました。


*¹言語不明瞭を分かりやすく言い換えると言語障害があったということです。

享保の改革の内容

享保の改革は内容が非常に豊富なため、いくつかの項目に分けて解説していきたいと思います。

人材登用について

吉宗は、側用人を廃止*¹して、自身が御三家*²の紀州藩から将軍家を相続した際に有能な紀州藩士を多く幕臣として採用します。

また、それ以外にも綱吉つなよし家宣いえのぶの代からも幕政に登用のあった荻生徂徠おぎゅうそらい*³や室 鳩 巣むろきゅうそうといった儒学者を侍講じこう(政治顧問)に登用し、改革の補佐を任せます。

1723年には、能力があるにも関わらず身分が低いために要職に就けない有能な人材を登用するため、在職中の間は役高の不足分を加算して補う足高たしだかの制を導入します。

ちなみに、足高の制で役高が加算されるのは在職中のみのため、職を退いた後は役高を元に戻せるという意味で経費節減も兼ねていたのです。

この足高の制によって登用された人材には、江戸町奉行の大岡忠相おおおかただすけや『民間省要』を著した田中丘隅たなかきゅうぐなどがいます。


*¹側用人は廃止したものの、代わりに御側御用取次おそばごようとりつぎという側用人に近い役職が新設され、側近政治自体はあまり変わりませんでした。

*²御三家…親藩の中でも最高位に位置し、徳川の名字を称することを許された分家のこと。
尾張・紀伊・水戸の3つが徳川御三家であり、吉宗は紀伊徳川家の出身でした。

*³荻生徂徠…江戸に私塾「蘐 園 塾けんえんじゅく」を開設して、儒学の一派である古文辞学派(蘐園学派)を創設しました。
また、吉宗の諮問に答え「政談」を献じて武士の農村帰還を説くなど経世論を展開しました。

財政改革

吉宗は悪化した幕府財政を再建するために、主に次の4つの施策を行っています。

上げ米
(1722年~30年)
1万石につき100石を幕府に上納させる
代わりに参勤交代の期間を半減
定 免 法じょうめんほう
(1722年)
検見法けみほう*¹を廃止し、
豊凶に関わらず年貢率を一定にした
新田開発の奨励
(1722年)
紀州流工法の高い技術を導入することで、
今まで開発できなかった肥沃地帯の
開発が可能になった
倹約令
(1724年)
幕府財政の緊縮が主な目的

特に重要なのは上げ米と定免法です。

この2つによって幕府は一時的な年貢増徴と財政の安定化を果たしたのです。

これらの施策を行ったため、吉宗は「米将軍・米公方」または、米の字を分解すると八十八になるため「八十八将軍・八木将軍」と呼ばれることもあります。
ちなみに、この米という字を分解すると八十八になるというのは、88歳を祝う賀寿の一つである米寿の由来と同じです。

しかし、年貢率が四公六民から五公五民*²に引き上げられたことや定免法の実施によって農民の負担は増してしまいます。

そこに1732年の享保の大飢饉も重なってしまったことで、江戸で打ちこわしが起こったり、百姓一揆の頻発を招くなど必ずしも良いことばかりではなかったのです。

農民一揆

*¹検見法…その年の収穫量に応じて年貢率を決定する年貢徴収法。
一見公平に見えますが、調査に多額の経費がかかる、賄賂による不正の横行など問題点も多い方法でした。

*²○公○民というのは年貢の取り分の割合を表していて、公が領主の取り分で民が農民の取り分です。
つまり、四公六民は領主40%:農民60%、五公五民は領主50%:農民50%なので、農民の負担が増大していますね。
ちなみに、記事を執筆している正に今、増税に次ぐ増税によって国民の負担が増えているというニュースを聞いたことがあるという人も多いと思います。
今の日本国民の税負担は五公五民と同等以上とも言われているので一昔前なら一揆が起きるレベルなのでそりゃ生活も苦しいわけですね。

行政改革

次は行政を合理化するために行われた行政改革の内容を見ていきましょう!
行われた主な施策は以下の表の通りです。

相対済あいたいすまし令
(1719年)
金公事を幕府は取り上げないことにした
目安箱めやすばこの設置
(1721年)
町人や百姓の不満や要望を
直訴させて情報収集
足高たしだかの制
(1723年)
在職中は役高の不足分を加算
公事くじかた御定おさだめがき
(1742年)
基本法令や判例をまとめて
司法の円滑化を図る
御触書おふれがき寛保かんぽう集成しゅうせい編集
(1744年)
幕府が出した御触書をまとめた法令集

行政改革は特に重要な内容が多いので重点的にチェックしていきましょう!

相対済し令は、金公事(金銭関係の訴訟)を一部の例外を除いて幕府では受け付けず、当事者間の示談で解決するように促した法令です。

仲直り・示談

これは、金銭関係の訴訟が増加したことで、刑事訴訟などの他の訴訟に手が回らなくなってきてしまったために出されたものです。

目安箱は、住民の意見や要望を集める意見箱のようなものと考えればOKです。
ちなみに目安箱の「目安」は原告が民事訴訟の際に裁判所に提出する書類である訴状のことです。

足高の制は人材登用のところでも取り上げたので詳しい説明はそちらを参照してください。

公事方御定書は、老中の松平乗邑のりさとや江戸町奉行の大岡忠相らに編纂させた江戸幕府の基本法典です。
これによって裁判や形の基準を示すことで司法の円滑化を図りました。

都市・経済政策

吉宗の改革は都市政策や経済政策にまで及んでいます。
次はその施策の内容を以下の表で見ていきましょう!

江戸町火消を設置
(1720年)
目的は江戸で頻発した火災対策
株仲間を公認
(1721年)
代わりに上納金として冥加みょうがを徴収
質流し禁令
(1722年
→翌年撤回)
田畑永代売買禁止令に基づき、
田畑の質流しを禁止
石川いしかわ養生所ようじょうしょの設置
(1722年)
診察料無料の医療施設
堂島どうじま米市場*¹公認
(1730年)
目的は米価の上昇
元文げんぶん金銀改鋳*²
(1736年)
目的は市場通貨量の増加と米価の上昇

特に覚えておきたいのが、株仲間と呼ばれる商工業者の同業組合を公認したことです。

江戸幕府の初期の頃は戦国時代から行われた楽市・楽座を踏襲して、株仲間による市場の独占を危惧して禁止していましたが、商品の流通を規制するために次第に黙認されるようになっていきます。

そこに更に物価統制の必要も出てきたため、吉宗は上納金を納める代わりに株仲間を公認することにしたのです。

他の施策としては、1657年の明暦の大火を始めとして「火事と喧嘩は江戸の華」と呼ばれるほど火災が頻発していた江戸の火事対策として江戸町火消いろは四十八組を組織します。

火消

更に目安箱に投書された意見に基づいて設置された小石川養生所は、診察料無料の診療所として幕末まで継続された医療政策でした。

ちなみに、これらの施策のほとんどに江戸町奉行の大岡忠相が関わっています。


*¹堂島米市場…大坂にある全国からの年貢米が一度集まる場所。
米価下落の対策と一年を通じて米の取引ができるように設立されました。

*²5代目将軍綱吉の時代に荻原重秀の意見で実施された元禄小判の改鋳のように、金の含有率を下げた質の低い通貨への改鋳。

その他の施策

最後に上に挙げた以外の施策を少し見ていきましょう。

まずは漢訳洋書の輸入制限緩和です。

吉宗はキリスト教に関係のない漢訳洋書の輸入を緩和して西洋技術の導入を図るとともに、青木昆陽あおきこんよう野呂のろ元 丈げんじょうにオランダ語を習得するよう命じます。

青木昆陽には更に飢饉対策として甘藷かんしょ(サツマイモ)の栽培研究を命じて、他にもはぜ朝 鮮 人 参ちょうせんにんじん、さとうきびなどの商品作物の栽培を奨励したのです。

甘藷(サツマイモ)

享保の改革の影響とまとめ

最後に、今回の表で赤字で示した特に重要な施策だけを一覧表にしたので、これで今回の内容をおさらいしておきましょう!

上げ米
(1722年~30年)
1万石につき100石を幕府に上納させる
代わりに参勤交代の期間を半減
定 免 法
(1722年)
検見法を廃止し、
豊凶に関わらず年貢率を一定にした
相対済し令
(1719年)
金公事を幕府は取り上げないことにした
目安箱の設置
(1721年)
町人や百姓の不満や要望を
直訴させて情報収集
足高の制
(1723年)
在職中は役高の不足分を加算
公事方御定書
(1742年)
基本法令や判例をまとめて
司法の円滑化を図る
株仲間を公認
(1721年)
代わりに上納金の冥加を徴収

享保の改革は、行政を合理化して幕府財政を安定させた一方で、農民の負担が強まり、厳しい倹約を要求したため後に人口や経済の停滞、一揆の増加という結果を招いてしまいます。

しかし、豊富な内容で行われ、幕府財政を安定化させることに成功した享保の改革は、残りの二大改革である寛政の改革と天保の改革でも、お手本とされました。

そのため、残りの2つの改革を勉強する時もこの改革との共通点を意識して勉強すると良いと思います。

一通り学習が終わった後はこちらの問題を解いて復習もしていきましょう!

享保の改革の次である田沼時代についてはこちらの記事でまとめてあります。

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