天保の改革|幕府の復権を目指した水野忠邦の改革【日本史】

水野忠邦 解説

江戸時代の享保の改革・寛政の改革・天保の改革を合わせて江戸の三大改革と言います。

今回は、三大改革の最後となる天保の改革について解説していきたいと思います!

ちなみに、前回の大御所時代についてはこちらの記事から見られます。

Homura
Homura

この講座の難易度は★★★☆☆です。

天保の改革の特徴

天保てんぽうの改革は、老中みず忠邦ただくに主導の下行われた改革です。

水野忠邦
水野忠邦像

期間は、1837年に第12代将軍徳川家慶いえよしに将軍職を譲り大御所として実権を握っていた徳川家斉が死去した1841年から水野忠邦が老中を罷免される1843年までの約2年間を指します。

「いや、い(1841)改革、天保は」という語呂合わせで覚えても良いかもしれませんね。

天保の改革の特徴は、「復古的理想主義」と「幕府権力の回復を目指した」ことにあります。

復古的理想主義は、寛政の改革の時にも出てきた用語で、意味は字の如く「昔が理想」です。
つまり、天保の改革は享保の改革や寛政の改革が目標でした。

特に、天保の改革は寛政の改革との共通点が多いのでそこに注目して勉強していきましょう!

天保の改革の政策・施策

それでは、天保の改革の政策や施策を見ていきましょう!

今回は試験において重要な施策とその他の施策の2つに分けて紹介していきたいと思います。

試験において重要な政策・施策

三方領知(地)替え
(1840年)
縁故のある川越藩に忖度
庄内藩の反対で翌年撤回
倹約令
(1841年)
しゃ*¹や初物はつもの*²を禁止
→厳しすぎて庶民の不満増大
株仲間の解散
(1841年)
物価騰貴の原因とされた
株仲間を解散→逆に流通が混乱
天保の薪水しんすい給与令
(1842年)
異国船打払令を緩和
 →アヘン戦争が原因
上知じょうち(地)れい
(1843年)
江戸・大坂周辺の知行地を没収
幕府直轄領にする→撤回
人返しの法
(1843年)
農村人口の確保が目的
(≒寛政の改革の旧里帰農令)

絶対に覚えておきたいのは赤字の3つです。

忠邦は物価とうの原因が市場を独占している株仲間にあると考えて、自由な経済活動を推進するために株仲間を解散させます。

しかし、流通を管理していた株仲間が解散したことは流通の混乱を生むことになり、結果的には逆効果になってしまいます。

また、幕府財政の立て直しと海防の強化のために、江戸や大坂周辺の大名や旗本領を幕府直轄領にする上知(地)令を出しましたが、大名や旗本の強い反対にあい中止されてしまい、忠邦が老中を失脚するきっかけとなってしまいます。

人返しの法は表に書いてあるように、寛政の改革で行われた旧里帰農令の名前が変わっただけで趣旨は同じものです。

倹約令は寛政の改革と同じように厳しい倹約を庶民に強いました。
これにより庶民の不満が高まることになります。

天保の薪水給与令は、アヘン(阿片)戦争で清(中国)がイギリスに敗れたことを受けて1825年に異国船打払令を緩和するために出された法令です。
内容は外国船が来たらまきや水、燃料や食料・水などを与えようというものです。


*¹奢侈…度を超えたぜいたくのこと。

*²初物…その季節に初めて収穫された野菜や果物、獲れた魚介など。
その季節の最初の入荷品という希少性から高値が付きやすい。

三方領知替え

三方領知替えは、川越かわごえ藩、庄 内しょうない藩、長岡ながおか藩に命じられた領地の入れ替えです。

発端は川越藩が第11代将軍徳川家斉の子を養子に迎えたことにあります。
家斉は俗物将軍というあだ名が付けられる位に子供を作っていたと前回の講座で解説しましたが、それがこの出来事に繋がってきます。

川越藩はこの縁故を利用して財政赤字解消のために、より良い土地への転封てんぽうを希望したのです。

これを受けて幕府は1840年に先に挙げた3藩に三方領知替えを命じます。
それが次の図のようなものでした。

1840年三方領知替え

これに怒るのは当然、実高21万石から7万石になる庄内藩の人達ですよね。

しかも庄内藩は農村にも優しい善政を行っていて民衆からの信頼も厚かったので、民衆からも怒りを買います。

こうした庄内藩全体の非常に強い反対があったため、翌年に第12代将軍の徳川家慶が中止を決断します。

しかし、幕府が一度出した命令が撤回されたというこの出来事は幕府の権威が失墜していることを象徴するものでした。

その他の施策

西洋砲術の導入
(1841年)
高島秋 帆たかしましゅうはんらに導入を命令
→近代軍備の整備を図る
歌舞伎三座の移転
(1842年)
風俗取締の一環で歌舞伎三座を
江戸からすえの浅草へ
出版統制人 情 本にんじょうぼん為永春 水ためながしゅんすい
合巻ごうかん柳 亭種彦りゅうていたねひこを処罰
捐令えんれい武士や民衆の救済が目的
→貸し渋りが発生し逆効果
いんぬまの工事忠邦の失脚で中止
貨幣改悪急激なインフレの原因になる

こう見ると先の改革との共通点が非常に多いですね。

棄捐令や質の低い貨幣への改鋳・出版統制などは寛政の改革にもありましたね。

印旛沼については田沼時代にも出てきました。

ちなみに、人情本は女性向けの恋愛小説で代表作は為永春水の『 春 色しゅんしょくうめ児誉美ごよみ』があり、合巻は黄表紙を何冊か綴じ合わせた絵入りの小説で代表作は柳亭種彦の『にせ紫(むらさき)田舎いなかげん』があります。

『偐紫田舎源氏』は『源氏物語』の舞台を平安時代から室町時代に移した作品であり、現代に置き換えると二次創作や同人誌みたいなものです。

大御所時代の緩い雰囲気とは一転して行われたこうした厳しい出版物への統制や歌舞伎三座の移転のような風俗取締は、倹約令と合わせて庶民の不満を煽るには十分でした。

天保の改革の影響とまとめ

復古的理想主義を掲げた天保の改革はある意味時代にそぐわないものであったため、行われた施策は失敗の連続となってしまいます。

厳しすぎる倹約と統制は庶民の不満を増大させ、三方領知替えや上知令を撤回したことは幕府の権威失墜を象徴するものとしては十分なものでした。

こうして改革は失敗し、忠邦の目標とは裏腹に幕府権威の更なる低下を進めてしまいます。

これによって後に雄藩と呼ばれる諸藩の自立を促進することになり、幕藩体制の崩壊を早める要因となります。

それでは、最後にもう一度天保の改革の重要な政策と施策の表を掲載しておくので、これを見て復習をしておきましょう。

三方領知(地)替え
(1840年)
縁故のある川越藩に忖度
庄内藩の反対で翌年撤回
倹約令
(1841年)
しゃ初物はつものを禁止
→厳しすぎて庶民の不満増大
株仲間の解散
(1841年)
物価騰貴の原因とされた
株仲間を解散→逆に流通が混乱
天保の薪水しんすい給与令
(1842年)
異国船打払令を緩和
 →アヘン戦争が原因
上知じょうち(地)れい
(1843年)
江戸・大坂周辺の知行地を没収
幕府直轄領にする→撤回
人返しの法
(1843年)
農村人口の確保が目的
(≒寛政の改革の旧里帰農令)

学習が終わった後はこちらの問題にも挑戦してみてくださいね!

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