大政奉還|文久の改革・薩長同盟等も解説!【日本史】

大政奉還|文久の改革・薩長同盟 解説

今回は、前回の坂下門外の変の後から大政奉還までの流れを解説していきます。

前回やった家定の将軍継嗣問題から坂下門外の変までの内容はこちらの記事にまとめてあります。

Homura
Homura

この講座の難易度は★★★☆☆です。

薩摩藩の動き

寺田屋事件

坂下門外の変を機に安藤信正が失脚すると、藩主ではないものの、事実上の薩摩藩の最高権力者であった島津久光ひさみつ*¹は、朝廷にも働きかけて、公武合体の立場から幕府の改革を推進しようとします。

島津久光

それにあたって、1862年、改革の妨げとなり得る薩摩藩内の尊王攘夷派を弾圧します。

これを寺田屋事件と言います。


*¹島津斉彬の死後、彼の遺言によって藩主になった島津茂久の父が久光です。
茂久はまだ若年であったため、政治を主導していたのは久光でした。

文久の改革

寺田屋事件で尊攘派を粛正した久光は、勅使同行で江戸に下り、幕府に改革を要求します。

その結果、将軍継嗣問題の後、安政の大獄で処分されていた一橋(徳川)慶喜将軍後見職に、松平慶永政治総裁職に、松平容保かたもりは京都守護職*¹に就任することになったのです。

また、参勤交代の緩和・西洋技術を取り入れた軍事改革なども行われました。

朝廷や雄藩の要求に抗えず、これらを受け入れるしかなかった幕府の権威は更に失墜し、相対的に朝廷の権威は向上することになります。

そのため、翌年1863年の将軍家茂の上洛要求にも応じざるを得なくなってしまったのです*²。


*¹京都所司代の上に新しく創設された役職。

*²この上洛の際に、家茂は(旧暦)5月10日の攘夷決行を孝明天皇に上奏しました。
結果的に行ったのは横浜の鎖港の通告という穏便な攘夷であり、長州藩のような武力による過激な攘夷派には物足りないものでした。

生麦事件

文久の改革を要求した久光は、その後帰国の途に就きます。

この最中に、久光一行の行列を横切ったイギリス人4人を薩摩藩士が襲い、結果2人が重傷、1人が死傷するという事件が起こってしまいます。

この事件を生麦事件と言います。

これによってイギリスと薩摩藩の関係は悪化し、生麦事件の事後処理がもつれた結果、薩英戦争が勃発するきっかけになったわけです。

薩英戦争

生麦事件の事後処理がもつれた結果、1863年にイギリス艦隊と薩摩藩が鹿児島で武力衝突し、薩英戦争が勃発します。

この戦闘によって、両者共に相当の損害を被り、死傷者や負傷者も多く出てしまいました。

その後、幕府が仲介し、生麦事件の遺族に扶助料が支払われることで講和することになります。

この講和をきっかけに両者は対立姿勢から一転し、友好関係を築くようになったのです。

正に、昨日の敵は今日の友というわけですね。

長州藩の動き

イギリス公使館焼き打ち事件

1862年*¹に東禅寺事件をきっかけに江戸品川に建設中だったイギリス公使館が長州藩士の高杉晋作しんさく*²・伊藤博文ひろぶみ井上馨(かおる)らによって焼き打ちされます。

この事件も尊王攘夷運動が激化したことによって起こったものの一つでした。


*¹1862年は旧暦の場合で、西暦だと1863年です。

*²高杉晋作は後に武士と庶民の混合部隊から成る奇兵隊を編成したことでも有名です。
武士だけの隊が正規兵から成ることからの対比でこの名が付けられました。

高杉晋作

長州藩の攘夷実行

尊王攘夷運動が高まった長州藩は、家茂が上奏した攘夷を期限が過ぎても実行しないことに対して業を煮やし、朝旨ちょうし*¹である攘夷を遂に実行に移します。

1863年に下関でアメリカ・オランダ・フランスの船を砲撃したのです。

この過激な攘夷実行が後の政変や事件へと繋がっていくことになります。


*¹朝旨…朝廷の意向のこと。

四国艦隊下関砲撃事件

1863年に下関で列強の船を砲撃した報復として、1864年にアメリカ・イギリス・オランダ・フランスの四カ国が下関を砲撃し、砲台を占拠しました。

これを四国艦隊下関砲撃事件と言います。

この事件を機に武力による過激な攘夷が不可能だと悟った長州藩は、列強と接近し知識を得て、軍隊の近代化をしていき、やがて討幕へと傾いていきます。

穏健攘夷派 VS 過激攘夷派

穏健攘夷派は交渉による通商条約の破棄・公武合体・幕政改革を目指した勢力で、主に薩摩藩や会津藩が該当します。

過激攘夷派は武力による列強排除を目指した勢力で、主に長州藩が該当します。

八月十八日の政変

孝明天皇・会津藩・薩摩藩などの幕府と列強の交渉による穏便な攘夷を望んでいた勢力は長州藩の武力による過激な攘夷に対して危機感を示します。

そこで1863年の8月、穏便な攘夷を望むこれらの勢力が朝廷内の過激な尊攘派と長州藩を追放します。

この出来事を八月十八日の政変と言います。

池田屋事件

八月十八の政変の後、穏便な攘夷を望む勢力は、新選組しんせんぐみ*¹を使い、京都内に潜伏していた長州藩士や土佐藩士などの尊攘派を洗います。

新選組

そして1864年、新撰組は京都の旅籠はたご*²の一つである池田屋に潜伏していた尊攘派を発見し、これを襲撃して過激派の御所焼き打ちを未然に防いだのです。

これを池田屋事件と言います。


*¹幕末に京都は政治の中心地となって、尊攘派や倒幕派などの過激派の志士が集まり、治安が悪化してしまいました。
そこで、これら過激派の志士を弾圧するために浪士を募って結成されたのが新撰組です。
有名な新撰組のメンバーには、近藤勇・斎藤一・土方歳三などがいます。

*²旅籠…いわゆる宿屋のこと。

禁門の変

八月十八日の政変・池田屋事件などによって京都から追われていた長州藩は、1864年に兵を率いて入京しこれに対抗しようとします。

これに対して薩摩藩や会津藩が応戦した結果、長州藩は撤退に追い込まれました。

これを禁門の変蛤(はまぐり)御門の変)と言います。

第1次長州征討

禁門の変を起こした長州藩を処罰するために、朝廷は長州征討の勅命を出します。

これに応じて幕府や諸藩が出兵し、1864年に長州藩は降伏することになったのです。

これを第1次長州征討と言います。

薩長同盟

これまで見てきたように、薩摩藩と長州藩はそれぞれ攘夷に対する考え方の違いから対立してきたわけです。

薩摩藩と長州藩の対立の流れ

しかし、両藩とも薩英戦争や四国艦隊下関砲撃事件を経て、列強の軍事力を目の当たりにしたことで、攘夷から開国・討幕*¹へと考えを改めていきます。

薩長同盟までの流れ

そんな両藩を土佐藩の脱藩浪士だった坂本龍馬*²や中岡慎太郎*³らが仲介したことで西郷隆盛*⁴と桂小五郎木戸きど孝允たかよし)*⁵の会談に結び付き、1866年に薩長同盟(連合)が成立したわけです。


*¹討幕ではなく倒幕と表記する場合もありますが、この2つは一般的に次のような違いがあります。
討幕→武力による幕府打倒・徳川家排除・急進的
倒幕→幕府体制の打破・公議政体派・穏健的
ただ、ここの違いを厳密に問われることもそんなにないと思うので、最初の内は学校や塾で習った方だけ覚えても問題ないと思います。

*²坂本龍馬は貿易会社・私設海軍である亀山社中(後の海援隊)の結成・幕府の朝廷への政権返上と議会による政治を理想とした国家構想『船中八策』などでも有名です。
ただし、『船中八策』自体は後世の創作とされる説が現在では有力になっています。

坂本龍馬

*³中岡慎太郎は武力による討幕を行うための浪士隊である陸援隊の結成をしたことでも有名です。

中岡慎太郎

*⁴下級武士から躍進し、薩摩藩内の尊王攘夷派の指導者にまで上り詰めた人物。
後に勝海舟かつかいしゅうと交渉し、江戸城の無血開城にも一役買いました。

西郷隆盛

*⁵高杉晋作などと共に長州藩内の尊王攘夷派の指導者であった人物。
後の明治維新でも大きな役割を果たし、岩倉使節団にも参加しました。

桂小五郎(木戸孝允)

改税訳書

安政の五ヵ国条約を結んで貿易が始まって以降、衣服や食料などの一部の物を除いて、輸入関税率は20%という高い関税率が設定されていました*¹。

これを良く思わなかった列強は幕府に圧力をかけた結果、改税訳書かいぜいやくしょが締結されます。

改税訳書は、1866年に幕府がアメリカ・イギリス・フランス・オランダの四カ国と締結した関税協定です。

内容はいくつかありますが、特に覚えておきたいのは輸入関税率を一律5%という低関税率に設定した*²ということです。

これによって、大量の安価な外国製品が入ってきて、日本は輸入超過の状態に陥り、国内産業は大きな打撃を受けてしまったのです。


*¹厳密に言うと、改税訳書以前の課税方式は5%から35%までの従価税と呼ばれるものでした。
従価税は読んで字の如く価格を基準に課税する方式です。
例えば、100円のお菓子に5%の従価税率が設定されていた場合は、「100円×5%」で税金は5円となります。

*²改税訳書以降の課税方式は従来の従価税から従量税と呼ばれる方式に変わりました。
従量税は重さや個数などの数量を基準に課税する方式です。
例えば、平均金額100円のお菓子1個に対して5%の従量税率が設定されていた場合は、そのお菓子の税金は1個当たり5円となります。
では、なぜ従量税に変わったかと言うと、簡単に言えば、従量税の方が外国にとって貿易が有利になるからです。
例えば以下の例を見てみましょう。

従価税と従量税の一例

これを見れば分かるように、従価税では値段が上がれば上がるほど税金をたくさん払わなくてはいけなくなりますが、従量税では値段がいくら上がっても税率は個数にかかるので変わりません。
つまり、従量税で低関税にすれば、物を輸入する時に払う税金が少なくて済むので、外国は日本から物を買う時にも有利になり、日本も外国の物を輸入しやすくなります。
そのため、外国は改税訳書で従量税の低関税に変えましたが、結果は先述の通りとなったわけです。

第2次長州征討

1865年から幕府は長州再征の準備を進め、翌年66年に長州再征を始めます(第2次長州征討)。

しかし、第2次長州征討までに長州藩が西洋への軍事改革を始めとした藩政改革を進めていたこと、薩長同盟を既に結んでいたため、雄藩である薩摩藩が参加しなかったこともあって幕府側は各地で敗戦を重ねることになります。

そして、第2次長州征討から数か月後に第14代将軍家茂が急死したため、再征は中止となったのです。

この敗戦は幕府側の威信を更に失墜させ、討幕の動きは加速していきます。

家茂の死後は、第15代将軍として徳川慶喜よしのぶが就任し、同時期に孝明天皇も急死したため、翌年67年に明治天皇が即位します。

徳川慶喜

大政奉還

第2次長州征討の失敗以降、薩長同盟などを中心とした討幕派の動きは更に活発化していきます。

慶喜は討幕の密勅が出される前に、先手を打とうと1867年に大政奉還たいせいほうかんを行います。

慶喜はこれによって、討幕の大義名分を失くし、政権は引き続き強い勢力を有する幕府が握ろうとしたわけです。

実際に大政奉還以降も政治の主導権は引き続き慶喜が握っていたことには変わりなく、大政奉還の同日には薩長両藩に討幕の密勅*¹が下されましたが、しばらく様子見をすることになりました。


*¹この討幕の密勅は正式な書式ではなく、討幕派の偽勅とも言われています。

まとめ

それでは、今回の内容を年表でまとめていきましょう!

1862年寺田屋事件
→島津久光が藩内の尊王攘夷派を弾圧
文久の改革
→久光が勅使を伴って幕府に改革要求
生麦事件
→久光一行の行列を横切ったイギリス人を殺傷
イギリス公使館焼き打ち事件
→長州藩がイギリスの仮公使館を焼き打ち
1863年家茂が上洛し、5月10日には攘夷決行を上奏
長州藩が攘夷実行
→下関でアメリカ・イギリス・オランダ船を砲撃
薩英戦争
→生麦事件の事後処理がもつれたことがきっかけ
→講和後は薩摩藩とイギリスが急接近
八月十八日の政変
→穏健派が過激な攘夷派や長州藩を京都から追放
1864年池田屋事件
→新選組が尊王攘夷派を襲撃
禁門の変(蛤御門の変)
→長州藩が兵を率いて入京するが返り討ちに遭う
第1次長州征討
→禁門の変を起こした長州藩を処罰するため
 長州藩は降伏
四国艦隊下関砲撃事件
→長州藩の攘夷に列強が報復
 長州藩は武力による攘夷が不可能だと悟る
1866年薩長同盟(薩長連合)成立
改税訳書締結
→従来の5%~35%の従価税から5%の従量税へ
 輸入超過の状態に陥り、国内産業に打撃
第2次長州征討
→薩長同盟の存在・家茂の急死で失敗
徳川慶喜が第15代将軍に就任・孝明天皇が急死
1867年大政奉還
→討幕派の先手を打つため
→同日には討幕の密勅も出される
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