田沼時代は享保の改革と寛政の改革の間を差し、正徳の治と合わせて江戸の五大改革として数えられることもあります。
そんな田沼時代に行われた施策は他の改革とは異なるアプローチが多く見られます。
今回はそういった点に注目しながら田沼時代について解説していきたいと思います。
ちなみに、前回の享保の改革についてはこちらの記事から見られるので、興味のある方はこちらも是非見てみてくださいね。
この講座の難易度は★★☆☆☆です。
田沼時代の特徴
田沼時代は一般的に、第9代将軍家重が亡くなり、第10代将軍家治に田沼意次が側用人に任命された1767年から意次が老中を罷免されるまでの1786年を指します。
ちなみに、老中に就任したのが1772年なので、ここからが田沼時代と説明している教科書もあるかもしれません。
この田沼時代の特徴として、他の改革と大きく異なるのは「重商主義」という点にあります!
江戸時代の年貢は米であるため、基本的な幕府の方針は重農主義でしたが、意次は年貢以外の収入源を模索したのです。
田沼時代の政策・施策
それでは、重商主義という点に注目しながら田沼時代の政策や施策を見ていきましょう!
株仲間を積極的に公認 | 営業税として運 上・冥加を徴収 |
南鐐二朱銀鋳造 | 東西の貨幣統一を推進 |
長崎貿易の奨励*¹ | 銅・俵物*²を輸出 |
印旛沼・手賀沼の干拓*³ | 意次の失脚により中断 |
蝦夷地の開拓計画 | 最上徳内らを千島へ派遣 |
*¹最近の研究では特に貿易額に変化はないという説も出ているので、この点についてはその内教科書の内容などが変わるかもしれませんね。
*²俵 物…江戸時代に中国(清)向けに輸出されていた海産物のことで、いりこ・干 鮑・ふかひれの3つをまとめて俵物3品とも言います。
他に輸出されていたものとしては昆布・するめ・かつおぶしなどもあります。
そして、これらの海産物を輸出する際に俵につめて輸送していたことがこの名の由来となっています。
*³干拓…水を抜いたり干上がらせて陸地にすること。
農地開拓と同じような意味と考えれば分かりやすいと思います。
株仲間を積極的に公認
一番覚えなければいけないのは、株仲間を積極的に公認したことです!
享保の改革の頃から株仲間が公認されるようになりましたが、意次はそれを更に推進したのです。
理由は、営業税(手数料)として運上・冥加の徴収をすることで収入を増加させたかったからです。
ちなみに、享保の改革の時にも「冥加」があり、今回新しく「運上」というものが出てきましたが、一応両者の違いとしては次のような点があります。
- 運上は一定の税率を定めて課税
- 冥加は一定の税率を定めずに必要に応じて上納
ただし、江戸時代後半になるにつれてこの違いはなくなっていったようですが、一応補足として説明しました。
南鐐二朱銀鋳造
江戸時代に流通していた貨幣は藩札などを除くと、金貨・銀貨・銅貨(銭貨)が主だったため三貨制度とも言われていました。
そして、東の金遣い・西の銀遣いと言われていたように、東西で主に流通していた貨幣が違っていたわけです。
これらの異なる貨幣の交換比率が相場によって変動し*¹、江戸の物価高の一因にもなっていたため、幕府は通貨制度を統一したいと考えます。
これにある程度成功したのが南鐐二朱銀鋳造でした。
それまでは銀貨の価値は重さで決まる秤量(しょうりょう)貨幣でしたが、南鐐二朱銀の鋳造によって貨幣単位で価値が決まる計数貨幣へと移行し始めます。
その結果、東西の経済圏の統一化が進み、市場の更なる活性化が図られたのです。
しかし、それでも完全な統一は難しく、明治時代に入るまでこの問題は残り続けることになります。
*¹このため、為替を専門とする両替商という新しい職業が出てくるほどでした。
蝦夷地の開拓計画
ロシアの南下政策の危険性と蝦夷地開拓・経営の必要性を説いた工藤平助の『赤蝦夷風説考』*¹の影響を受けた意次は、1785年に蝦夷地へ最上徳内ら調査隊を派遣します。
意次が失脚した後は一時計画が中断されてしまいましたが、後の1798年と1800年に近藤重 蔵・最上徳内らが択捉島に「大日本恵登呂府」の標柱を合わせて2本立てて領有宣言を行います。
このように、意次の蝦夷地への調査隊派遣はその後の蝦夷地開発の先駆けとなったのです。
*¹『赤蝦夷風説考』はその後蝦夷地やロシアに対して多くの関心を集めるきっかけとなりました。
例えば、『海国兵談』を著した林子平などが代表的で、後に平助はこの『海国兵談』の序文を書いています。
田沼時代の影響とまとめ
田沼意次のこれらの政策・施策はそれまでの政策にあまり見られなかった革新的なものが多かった一方で、重商主義の結果的として、幕府の役人と商人の癒着を生み、賄賂が横行してしまいます。
また、天明の大飢饉や浅間山の噴火などが重なったことも合わせて、幕府への批判がかなり高まる結果になってしまいます。
それによって1784年に意次の子である意知が旗本の佐野政言に刺殺される事件が起き、1786年の10代将軍家治の死去に伴い、老中を罷免され失脚することになってしまったのです。
ここまでが田沼時代についての解説でしたが、最後に少しだけ私の田沼時代についての印象を話して終わりたいと思います。
もしかしたら学校や塾では田沼時代を悪政の代表格として皆さんは習ったかもしれませんが、私は新しい試みに挑戦したにも関わらず、田沼意次は必要以上にネガキャンを受けているような気もします。
賄賂が横行したのは別に田沼時代に限った話ではないし、何なら現代でもあるくらいですからね。
皆さんはどう思いますか?
最後に蛇足でしたが、今回の講座はこれまでです。
皆さんお疲れ様でした!
一通り学習が終わった後はこちらの問題を解いて復習してみましょう!
ちなみに、田沼時代の続きとなる寛政の改革はこちらの記事から見れます。