欧米列強の接近|田沼時代からペリー来航まで【日本史】

欧米列強の接近 解説

今回は江戸時代後期の欧米列強に関してまとめていきたいと思います。

日本は鎖国して以降、貿易はオランダや清などに絞っていましたが、この頃にはロシアやイギリスをはじめとした列強が次々と日本へとやってきています。

その結果として起こった事件などや幕府の対応などを含めて、整理していきましょう!

Homura
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この講座の難易度は★★★☆☆です。

ロシアとの関わり

ロシア接近の背景

ロシアは当時南下政策を積極的に推し進めていましたが、その一番の目的は冬でも凍らない不凍港の獲得にあります。

ロシアはピョートル1世の治世になってから東方進出が更に加速していき、清とネルチンスク条約を結び、ロシアと清の国境の境界線が画定されます。

エカチェリーナ2世の治世になってからは南下政策が更に加速していき、カムチャッカ半島を領有するまでに至り、日本と隣国と言える距離まで迫ってきます。

こうして、ロシアは日本との通商を本格的に考慮するようになったのです。

ロシアとの接触

1778年、むろにロシア船が来航し通商を要求します。

その翌年には蝦夷地の厚岸あっけしに再来航し再び通商を要求しましたが、松前藩がこれを拒絶します。

この出来事の後の1783年に、藤平助どうへいすけが『あか蝦夷えぞ風説考ふうせつこう』を著して、沼意次ぬまおきつぐに献上したことで蝦夷地開発が計画されますが、意次の失脚によって中断されてしまいます。

田沼時代の蝦夷地開発計画や工藤平助についてはこちらの記事に詳しくまとめてあります。

ラクスマンの来航

1792年にはロシア使節のラクスマンがロシア皇帝エカチェリーナ2世の命を受けて、日本人漂流民の大黒だいこくこうゆうら数名を伴って、根室に来航し、通商を要求します。

幕府の松平定信は翌年、この要求を拒絶しましたが、長崎港への入港許可証(信牌しんぱいを交付して帰国させます。

このラクスマンの来航を受けて、定信は江戸湾や蝦夷地の防備を諸藩に命じます。

また、こうしたロシアの接近を危惧していた林子平はやししへいは『海国兵談かいこくへいだん』を著して海防の必要性を訴えましたが、寛政の改革の最中に処罰されてしまいます。

寛政の改革や林子平についてはこちらの記事に詳しくまとめてあります。

レザノフの来航

1804年、日本人漂流民数名の送還を名目に、ロシア皇帝アレクサンドル1世の親書とラクスマン来航の際に渡した信牌を持って、ロシア使節のレザノフが長崎に来航し、通商を要求します。

しかし、ラクスマンの時に対応に当たっていた定信が失脚していたこともあり、交渉は難航してしまいます。

結局、幕府は親書の受理はしたものの、翌年に、オランダ・中国(貿易国)・朝鮮・琉球(通信国)以外の国とは交際しないという鎖国の祖法を理由に通商を拒絶します。

その後、レザノフが武力による通商開始を上奏したこともあり、1806年と1807年にロシア船が樺太からふと択捉島えとろふとうの日本人居住地を襲撃するぶんこう(フヴォストフ事件)が起き、日露関係は悪化してしまいます。

この事件を受けて、幕府は1806年に出していた文化の薪水しんすい給与令*¹を翌年に撤回し、強硬策へと転換していきます。


*¹薪水とは、まき(燃料)と水・食料を意味しています。
つまり、薪水給与令は遭難船には燃料や水・食料を提供しましょうという法令です。

ゴローウニン事件

1811年、千島列島の測量をしていたロシア艦長ゴローウニン(ゴローニン)国後島くなしりとうで捕らえられ、箱館はこだて・松前に監禁されるゴローウニン事件が起こります。

この事件はまさに、先述の文化露寇によって日露関係が悪化していたことが原因で起こったものでした。

ゴローウニンは1813年までの約2年間に渡って監禁されましたが、ロシアに抑留されていたたか田屋だや嘉兵衛かへえの尽力によって釈放されます。

日本の蝦夷地開発

田沼時代には工藤平助の『赤蝦夷風説考』の影響を受けて、1785年に上徳内がみとくないが千島列島に派遣されます。

その後、1798年には近藤重 蔵じゅうぞうや最上徳内らによって択捉島に「大日本恵登呂府えとろふ」の標柱が建てられ実質的な領有宣言が行われます。

1807年には蝦夷地と松前藩領が幕府直轄となり、1808年に宮林蔵みやりんぞうが樺太探査に派遣され、翌年には間宮海峡を発見します。

ちなみに、後に北海道の地図を作る際には、日本地図作成でも有名な能忠敬のうただたかと間宮林蔵の分担によって作成が進められていました。

まとめ

それでは、ここまで学習してきたロシア関連の出来事を年表にまとめていきましょう。

1778年ロシア船が根室に来航し、通商を要求
→翌年には蝦夷地の厚岸に再来航
→松前藩が要求を拒絶
1783年工藤平助が『赤蝦夷風説考』を著して、
田沼意次に献上
1785年最上徳内が千島列島に派遣
1792年ラクスマンが大黒屋光太夫ら漂流民数名を
伴い根室に来航し、通商を要求
→幕府は要求を拒絶したが、長崎港への
 入港許可証(信牌)を交付
1792年『海国兵談』を著した林子平を処罰
松平定信が蝦夷地などの防備を諸藩に命令
1798年近藤重蔵・最上徳内らが択捉島に
「大日本恵登呂府」の標柱を建てる
1804年レザノフがロシア皇帝の親書と信牌を
持って、漂流民数名を伴い長崎に来航し、
通商を要求
→幕府は親書の受理はしたが、要求を拒絶
1806年文化の薪水給与令
→文化露寇を受けて翌年撤回
文化露寇(フヴォストフ事件)
→ロシア船が樺太や択捉島の日本人
 居住地を襲撃
1807年蝦夷地と松前藩領が幕府直轄になる
1808年間宮林蔵が樺太を探査
→翌年、間宮海峡を発見
1811年ゴローウニン事件(~1813年)
→高田屋嘉兵衛の尽力で事件は解決

1853年にはロシア使節のプチャーチンも来航していますが、それについては別の記事で触れたいと思います。

イギリスとの関わり

鎖国前の関わり

まずは、鎖国以前のイギリスとの関わりについておさらいしておきましょう。

1600年にオランダ船リーフデ号が豊後に到着した際に、船員の一人だったイギリス人航海士ウィリアム・アダムズ(浦按針うらあんじん*¹)が徳川家康の外交顧問となりました。

そして1613年にはイギリスとの正式な国交が始まり、平戸に商館が開かれます。

こうしてイギリスと日本は貿易関係を保っていましたが、キリスト教弾圧の流れもあり、1623年には商館が閉鎖されてしまい、日英の貿易関係は途切れることになりましたね。


*¹アダムズの日本名の按針は、水先案内人という意味で彼の職業に由来したものでした。

フェートン号事件

1808年、イギリス軍艦のフェートン号がオランダ船を捕獲するために、オランダ船を偽って長崎へ入港し、薪水を強奪するというフェートン号事件*¹が起こります。

この事件によって、事件の対応に当たっていた長崎奉行の松平康英やすひでは自害し、幕府の外国船対応の不備が明らかになります。

その後も1818年にゴルドンが浦賀に来航し、通商を求めたり、1824年にはイギリス船が薪水を強奪する宝島事件が発生するなど、イギリス船に対する警戒が強まっていきます。

その結果、幕府は海防を強化していき、1825年には国船打こくせんうち はらいれい無二むにねん打払令)を発令します。


*¹この事件の背景にはヨーロッパで起きたフランス革命・ナポレオン戦争が関係しています。
ヨーロッパではナポレオン戦争の勃発によって、ネーデルラント連邦共和国(後のオランダ)がフランスに占領され、実質的にフランスの属国となっていました。
当時フランスとは敵対関係だったイギリスは、オランダが持っていた海外植民地を奪うために行動しており、その結果としてフェートン号事件が起こってしまったわけです。

アヘン戦争と強硬方針の転換

1840年、イギリスと清の間でアヘン戦争(~1842年)が勃発します。

この戦争の結果、清がイギリスに敗北したことは日本に大きな衝撃を与え、西洋諸国の軍事力の高さをより知ることになります。

当時の日本にとっては『ドラえもん』で言ったらジャイアンが、『東京リベンジャーズ』で言ったらマイキーがやられる位の衝撃ですね。

そこで、幕府は異国船打払令による強硬方針を緩和し、1842年天保てんぽうの薪水給与令を発令します。

まとめ

それでは、イギリス関連の出来事についても年表でまとめていきましょう。

※年表では鎖国前に関する出来事は省略しています。

1808年フェートン号事件
→事件の対応をした松平康英は自害
1818年ゴルドンが浦賀に来航し、通商を要求
1824年宝島事件
1825年異国船打払令(無二念打払令)
1840年アヘン戦争(~1842年)
→イギリスが勝利し、清が敗北
1842年天保の薪水給与令

アメリカとの関わり

アメリカ接近の背景

当時はアメリカの捕鯨船がランプ用のげいを求めて太平洋で活発に活動していました。

しかし、航海は数年に及ぶものだったため、薪水などを確保するための寄港地が必要でした。

また、清との貿易を行うための航路の寄港地もアメリカは求めていました。

そのため、アメリカは日本をその寄港地として使えるように日本の開国を望んでいたわけです。

モリソン号事件

1837年、アメリカの商船モリソン号が日本人漂流民数名の送還と通商の交渉を目的に浦賀に向かいます。

しかし、幕府はこれをイギリス軍艦と勘違いし、異国船打払令に基づいて砲撃をするモリソン号事件が起こります。

この事件に対し、幕府の対応を強く批判した渡辺崋山や高野長英らが幕府によって処罰される蛮社ばんしゃごくという事件も1839年に起こります。

蛮社の獄についてはこちらの記事にもまとめてあります。

ビッドルとペリーの来航

1846年にアメリカ使節のビッドルが浦賀に来航し、通商を要求します。

しかし、幕府はこの要求を拒絶します。

そして1853年1854年に遂にあのペリーが、アメリカ大統領フィルモアの国書を携えて浦賀に来航します。

ペリー

まとめ

それでは、アメリカ関連の出来事を年表でまとめていきましょう。

1837年モリソン号事件
1839年蛮社の獄
→渡辺崋山や高野長英らが処罰
1846年ビッドルが浦賀に来航し、通商を要求
→幕府は要求を拒絶
1853年ペリーが浦賀に来航
1854年ペリーが再来航

ペリー来航については別の記事でより詳しく触れたいと思います。

オランダとの関わり

江戸時代の鎖国の状況下において、オランダは西洋で唯一日本と貿易を行っている国でした。

日本はオランダ経由で西洋などの情報も得ており、蘭学が発展していく要因になったわけです。

シーボルト事件

1828年、オランダ商館付医師として来日したドイツ人医師のシーボルトが帰国する際に、国外持ち出し禁止の日本地図が見つかるシーボルト事件が起こります。

シーボルト

この事件によって、シーボルトは国外追放され、地図を渡した天文方の高橋景保たかはしかげやすらも処罰されます。

しかし、後の1858年に結ばれた安政の五ヵ国条約によってシーボルトの国外追放は解除されます。

その後、1859年にオランダ貿易会社の顧問として再来日し、幕府の外交顧問となります。

ウィレム2世の開国勧告

アヘン戦争や当時の海外情勢を受けて、オランダ国王ウィレム2世は1844年に幕府に対して「日本もそろそろ開国しないとヤバいぞ!」と開国の勧告を行います。

しかし、幕府はレザノフの時と同じように鎖国の祖法を理由に翌年この要求を拒絶します。

まとめ

それでは、オランダ関連の出来事を年表でまとめていきましょう。

1828年シーボルト事件
→シーボルトは国外追放
 天文方の高橋景保らも処罰される
1844年オランダ国王ウィレム2世が幕府に開国勧告
→翌年、幕府は鎖国の祖法を理由に拒絶
1858年安政の五ヵ国条約(日蘭修好通商条約)
→シーボルトの国外追放解除
1859年シーボルトが再来日

まとめ

それでは、最後にまとめとして、今回の学習内容でも最低限覚えておきたい重要なものだけをピックした年表を以下に掲載しておきます。

今回は出来事がどの国に主に関係したものかを年表内で以下のように色分けしています。
ロシア→青色
イギリス→緑色
アメリカ→ピンク色
オランダ→黄色
日本→白色

1792年ラクスマンが大黒屋光太夫ら漂流民数名を
伴い根室に来航し、通商を要求
→幕府は要求を拒絶したが、長崎港への
 入港許可証(信牌)を交付
1804年レザノフがロシア皇帝の親書と信牌を
持って、漂流民数名を伴い長崎に来航し、
通商を要求
→幕府は親書の受理はしたが、要求を拒絶
1808年フェートン号事件
→事件の対応をした松平康英は自害
1811年ゴローウニン事件(~1813年)
→高田屋嘉兵衛の尽力で事件は解決
1825年異国船打払令(無二念打払令)
1828年シーボルト事件
→シーボルトは国外追放
 天文方の高橋景保らも処罰される
1837年モリソン号事件
1839年蛮社の獄
→渡辺崋山や高野長英らが処罰
1840年アヘン戦争(~1842年)
→イギリスが勝利し、清が敗北
1842年天保の薪水給与令
1853年ペリーが浦賀に来航
1854年ペリーが再来航

今回やった内容の続きとなるペリー来航以降については、以下の記事になります。

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