豊臣秀吉の天下統一|天下統一を果たした秀吉の道程を見てみよう!【日本史】

豊臣秀吉の天下統一 解説

今回からは豊臣秀吉について解説していきます!

秀吉は押さえておきたい内容も多いので、秀吉が行った数々の戦いについてを今回は解説して、次回の記事で秀吉の行った政治等について解説していきたいと思います。

そして、秀吉についての理解を更に深めるために、この記事を読む前に織田信長に関する記事を読んでおくことを強くオススメします!

Homura
Homura

この講座の難易度は★★★☆☆です。

本能寺の変が起こるまでの秀吉について

豊臣秀吉とよとみひでよしは1537年に尾張の地侍木下きのした右衛もんの子として生まれたとされています。

豊臣秀吉像(狩野光信画)
豊臣秀吉像(狩野光信画)

その後は紆余曲折あって信長の家臣として仕えるようになり、信長の草履取りをしていた時に、その草履を自分の懐で温めて出したという有名なエピソードを経て信長に気に入られるようになります。

そして信長の家臣として数々の戦いで功績を上げながら少しずつその頭角を現していくのです。

そんな信長と秀吉の関係は1582年本能寺の変により突如として終わりを迎えることになります。

ちなみに、秀吉は生涯に何度も改名していますが、試験対策という意味では以下の3つだけ覚えておけば十分だと思います。

木下藤吉郎きのしたとうきちろうしば秀吉→豊臣秀吉

秀吉の戦歴

山崎の戦い

本能寺の変が起こった時、秀吉は信長の命を受けて中国攻めの一環で、備中高松城を攻撃している最中でした。

しかし、事件が起きたことを知るとすぐに毛利氏と和睦して、主君信長を討った明智光秀と戦うために自身の軍を引き連れて備中から京まで約230kmを10日間で駆け抜けます(中国大返し)。

そして、中国大返しを敢行した秀吉は光秀と京都の山崎で激突します。

これが山崎やまざきの戦い(山崎合戦)です。

この戦いで秀吉は光秀を破り、光秀は合戦から逃れる途中に落ち武者狩り*¹に遭い、竹槍で突き刺されたことで亡くなります。

こうして光秀は三日天下(実際は11~12日程度)となり、後に行われた信長の後継者や領地の分割を決めるきよ会議において、秀吉は信長の家臣の中でも大きな発言力を獲得したのです。


*¹当時は百姓が自衛や武士の装備品などを目的に落武者を襲撃することが慣行としてありました。

賤ヶ岳の戦い

清州会議において秀吉と信長の重臣であったしば勝家かついえ*¹は後継者の地位を巡って対立することになります。

柴田勝家

やがて両者の対立はどんどん深まり、織田家の家臣を二分した後継者争いへと発展したのです。

そして1583年に両陣営はおう*²のしずたけで激突し、秀吉はこの戦いで勝家を破り、信長の後継者としての地位を確立します。

これが賤ヶ岳の戦いです。

余談となりますが、この戦いにおいて大きな武勲をあげた福島正則まさのりや加藤清正きよまさをはじめとした7人は賤ヶ岳の七本槍しちほんやりと呼ばれ、後の秀吉の政権下で大きな力を持つことになります。


*¹ちなみに、清州会議においては勝家と信長の妹であるお市の再婚についても決められています。
しかし、再婚して間もなく、秀吉に追い詰められた勝家は最終的にお市と共に自害することになってしまいます。

*²近江…現在の滋賀県長浜市のあたり。

小牧・長久手の戦い

柴田勝家を破ったことで、信長の後継者としての地位を確立した秀吉でしたが、今度は信長の子であった織田信雄のぶかつと対立することになります。

信雄は徳川家康と同盟を結び、秀吉と直接対決する姿勢を示します。

こうして秀吉と信雄・家康の連合軍は1584年にまきなが久手くての戦いでぶつかることになったのです。

両者の陣地が堅牢だったため戦況は膠着状態になり、時には秀吉陣営が奇襲作戦を実行するも家康陣営に作戦が露呈して頓挫するなど一進一退の攻防が半年ほど続きます。

しかし、最終的には信雄が秀吉と和睦したため、合戦の大義名分を失った家康も矛を納めて秀吉と和睦したことで小牧・長久手の戦いは終結します。

全国統一の達成

小牧・長久手の戦いで家康と講和した秀吉はその後、1585年に紀伊きいと四国を平定して関白かんぱく*¹となります。

翌年の1586年には太政大臣となり、この時に陽成ようぜい天皇から豊臣姓をたまわって豊臣秀吉へと改名します。

その後は1587年に九州を、1590年には小田おだわら攻め*²を行い北条氏をそれぞれ攻略します。

そして最終的に奥州の伊達正宗も服従させ、遂に全国統一を成し遂げたのです。

豊臣秀吉

*¹関白…令外官りょうげのかんの1つであり、成人した天皇を補佐する官職。
秀吉は後に甥の秀次ひでつぐに関白職を譲りますが、その後も政治的影響力を持ち続けたため、太閤たいこうとも言われています。
関白という用語は、藤原氏が平安時代に行った摂関政治でも出てきましたが覚えてましたか?
ちなみに、成人前の天皇を補佐するのは摂政せっしょうでしたね。

*²小田原城は非常に堅牢な城であり、3ヶ月に及ぶ籠城戦となりましたが、小田原城を見下すように山の上に一夜城を築いたり、鉄砲の射撃を行ったりするなど北条方を精神的に追い詰める事で開城に成功します。

朝鮮出兵

全国統一を成し遂げ、天下人として君臨した秀吉でしたが、後年にはみん(現在の中国)にかわってアジア一帯を支配することを目指して、名護屋なごや城を拠点として朝鮮出兵を敢行します*¹。

秀吉の朝鮮出兵は、文禄ぶんろくえき(1592年~1593年)と慶長けいちょうの役(1597年~1598年)の2度に渡って行われ、最初こそ日本軍が優勢でしたが、朝鮮側の武将李舜臣りしゅんしんらの抵抗や明の援軍が朝鮮に到着するなどして戦況は膠着状態に入ります。

その間に秀吉は病に倒れてしまい、1598年に亡くなったため、朝鮮出兵も中断されることになったのです。

亡くなる前に秀吉は自身の子秀頼ひでより*²を後継とし、大老たいろう奉行ぶぎょう*²にその後見を託しますが、実際は五大老の一人であった家康が影響力を高めていくことになります。


*¹秀吉が朝鮮出兵を行った明確な理由については現在でも諸説あり、確かなことは分かりません。
本能寺の変と同じように日本史のミステリーというわけですね。

*²秀吉には妻が複数おり、正室のねね(北政所きたのまんどころ)や側室の淀殿よどどの(浅井長政の娘、茶々)が有名です。
秀吉は当初、自分より身分が高かったねねと当時としては珍しい恋愛結婚しますが後継となる男児に恵まれませんでした。
そのため、甥の秀次を当初は後継者として考えていましたが、側室の淀殿との間に鶴松や秀頼など待望の男児が生まれました。
しかし、鶴松は幼い内に病気で亡くなってしまったため、秀頼が後継者として指名されたのです。

*³五大老と五奉行は秀吉の政権下における職制であり、五大老は奉行の顧問役を、五奉行は実務を担いました。

秀吉の政策

信長と同様に、秀吉の政策についても重要事項をピックアップして表で確認していきましょう!

内政関白・太政大臣等朝廷の伝統的な権威が背景
五大老五奉行を中心とした政治
五大老…徳川・前田・毛利・宇喜多・上杉
五奉行…浅野・石田・増田・長束・前田
外政海賊取締令(1588年)
→海賊行為を取り締まり、貿易を奨励
朝鮮出兵(1592年~93年・97年~98年)
土地政策太閤検地(1582年~1598年)
検地帳くに絵図えずの提出を命じる
→結果は石高こくだかで統一
→面積の単位やますの容量を京枡きょうますに統一
一地一作人の原則
→一つの耕地に一人の耕作人
→耕作権を保障する代わりに年貢負担を義務付け
身分政策刀狩令かたながりれい*¹(1588年)
人掃令ひとばらいれい(1591年・1592年)
兵農分へいのうぶんの推進
宗教政策バテレン追放令(1587年)
建築大坂城の築城(1583年~1598年)
→石山本願寺の跡地に築城
聚楽第じゅらくていの建設(1586年~1587年)
→秀吉の邸宅
大坂城

この表に書いてある事項(特に赤字の部分)を押さえるだけで試験対策としては十分だと思います。

教科書や資料集と合わせて一つ一つ確認しながら覚えていきましょう!


*¹刀狩は方広寺の大仏建立に使うという名目で百姓から武器を取り上げて一揆を防ぐという内容でした。
ちなみに、桃鉄に出てくる刀狩りカードの由来でもあります。

まとめ

それでは、豊臣秀吉に関する出来事等を年表でまとめていきましょう!

今回もかなり量が多いので、重要事項・頻出事項を年表では赤字にしてありますので、まずはその出来事を覚えるようにしましょう!

1537年尾張で豊臣秀吉が生まれる
1582年本能寺の変
→信長の訃報を聞き中国大返し敢行
山崎の戦い
明智光秀を破る
清州会議
→信長の家臣の中でも大きな地位を確立
太閤検地(~1598年)
1583年賤ヶ岳の戦い
→柴田勝家を破る
→信長の後継者としての地位を確立
大坂城の築城開始(~1598年)
1584年小牧・長久手の戦い
→織田信雄や徳川家康と対決・和睦
1585年紀伊・四国平定
関白になる
1586年太政大臣となり、豊臣姓を後陽成天皇から賜る
聚楽第の建設開始(~1587年)
1587年九州平定
バテレン追放令
1588年刀狩令
海賊取締令
1590年小田原攻め
→北条氏を攻略する
奥州平定
→伊達正宗を服従させ、全国統一達成
1591年人掃令(1592年にも)
→刀狩令と合わせて兵農分離を推進
1592年朝鮮出兵開始
文禄の役(~1593年)
慶長の役(1597年~1598年)
1598年秀吉が病死する(享年62歳)
→秀頼を後見とし五大老と五奉行が補佐

今回の内容の続きとなる徳川家康についての記事はこちらになります。

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