今回はアメリカがイギリスの植民地から独立するまでの一連の流れを解説していきたいと思います。
この講座の難易度は★★★☆☆です。
13植民地の成立
18世紀までに、北アメリカでは1607年のバージニアから始まり13のイギリスの植民地が成立していました。
この植民地の成立にはピルグリム=ファーザーズ(巡礼始祖)と呼ばれるピューリタン(清教徒)達が大きな役割を果たしています。
1620年にピルグリム=ファーザーズ達は、イギリスによる弾圧を恐れてメイフラワー号に乗ってプリマスに上陸し、ニューイングランド(北アメリカ北東部)発展の基礎を作ったのです。
イギリス本国との対立
1754年から始まったフレンチ=インディアン戦争(七年戦争)においてイギリスはフランスに勝利しましたが、戦費の重なりによって財政難に陥ってしまいます。
そこで、イギリスはこの財政難を解消するために植民地への課税を更に強化することで何とかしようと考えます。
1764年に砂糖法*¹が制定され、1765年には印紙法*²も制定されます。
しかし、これらの法律に対して植民地の人々は「代表なくして課税なし」*³と強い反対運動を展開します。
そのため、砂糖法も印紙法も1766年に撤廃されることになります。
しかし、1773年に制定された茶法*⁴がきっかけとなり、同年にボストン茶会事件*⁵が発生してしまいます。
この事件は、自由の息子達と呼ばれる急進派の人達が中心となって、イギリス本国への抗議のためにボストン港に停泊していた東インド会社の船に積まれた茶箱を海に捨てたというものでした。
このボストン茶会事件を受けて、イギリス本国は港を閉鎖して弾圧的諸法を制定して対応します。
これに対抗して植民地側は、1774年に第1回大陸会議をフィラデルフィアで開催し、イギリス製品のボイコットをする姿勢を示します。
この一連の流れによって、イギリス本国と植民地であったアメリカの対立は決定的なものとなってしまったわけですね
*¹砂糖法…砂糖に加えてワイン・コーヒー・衣類などへも課税した。
*²印紙法…あらゆる印刷物への印紙の貼り付けを義務付けし課税した。
*³植民地には税が課されていながら自分たちの代表である代議士を英国議会に送ることができなかった。
*⁴茶法…東インド会社が植民地において紅茶の独占販売を行えるようにした。
*⁵アメリカ人があまり紅茶を飲まずにコーヒーを好むきっかけになったとも言われています。
アメリカ独立戦争
1775年4月にレキシントンとコンコードでの武力衝突を契機としてアメリカ独立戦争が開戦します。
そして1775年の5月から始まった第2回大陸会議*¹においてワシントンが植民地側の総司令官に任命され、1776年の7月4日にはジェファソンが起草した『アメリカ独立宣言』がフィラデルフィアで採択されます。
また、1776年1月にはイギリス出身の哲学者トマス=ペインが『コモン=センス(常識)』を出版して独立の必要性を訴えたことで、植民地の間で独立の機運が更に高まっていきます。
開戦当初はイギリスと対立していた海外からの支援もわずかで苦戦が続いたものの、1777年のサラトガの戦いに勝利したことをきっかけにフランス*²のルイ16世が正式にアメリカ側への参戦を決定します。
今までは支援しても勝てないだろうと思われていたアメリカ側が、この戦いの勝利によって、支援したらイギリスに勝てるのではないかと他の国々は思ったわけですね。
フランスの参戦に続いてスペインやオランダもアメリカ側に参戦し、1780年にはロシアのエカチェリーナ2世が提唱し、北欧を中心に武装中立同盟*³が結成されたことでイギリスは国際的に孤立します。
また、ヨーロッパからはフランスのラ=ファイエットやポーランドのコシューシコなどが義勇軍として参戦します。
この一連の流れ、現在行われているウクライナとロシアの戦争とどこか似たような感じがしますね。
そして1781年のヨークタウンの戦いの勝利によってアメリカ側の勝利が決定的になったのです。
その後、1783年にパリ条約が結ばれイギリスは遂に13の植民地の完全独立を承認します。
ちなみに、戦力的には圧倒的に勝っていたイギリスがこの戦争に負けたのは、アメリカ側の士気の高さや土地勘、海外諸国のアメリカ側への参戦、戦地と本国が大西洋を挟んだ遠方であることで起こる兵站問題や情報遅延などに理由があると言われています。
*¹1775年5月から始まったこの第2回大陸会議は1781年の3月まで続きました。
*²この参戦によってフランスは戦費が重なってしまい、後のフランス革命の一因となります。
*³この同盟にはロシア・デンマーク・スウェーデン・プロイセン・ポルトガルの5ヵ国が参加しました。
アメリカの成立
イギリスからの独立を果たしたアメリカは、フィラデルフィアで憲法制定会議を行い、1787年に合衆国憲法を制定します。
この合衆国憲法は世界初の近代的な成文憲法であり、人民主権・連邦主義*¹・厳格な三権分立を規定した画期的なものでした。
この三権分立は国家権力の分立であり、内容は以下の通りです。
行政権:大統領
立法権:連邦議会
司法権:最高裁判所
ただ、合衆国憲法には基本的人権に関する規定がなく、国家からの権利侵害に対する国民の権利保護が不十分であったため、1791年に修正第1条から第10条までを権利章典という形で制定します。
そして、1789年には第1回連邦会議が開催され、初代大統領にワシントン・初代国務長官にジェファソン・初代財務長官にハミルトンが就任し、連邦政府が発足します。
*¹連邦主義…中央政府に外交や軍事における強力な権利がある一方で、各州に大幅な自治を認めた。
まとめ
それでは最後に、ここまでの流れを年表でおさらいしていきましょう!
1607年 | バージニア植民地成立 |
1620年 | ピルグリム=ファーザーズが メイフラワー号でプリマス上陸 |
1754年~ | フレンチ=インディアン戦争 (七年戦争)(~1763年) イギリスがフランスに勝利 |
1764年 | 砂糖法→1766年撤廃 |
1765年 | 印紙法→1766年撤廃 |
1773年 | 茶法→ボストン茶会事件のきっかけに |
ボストン茶会事件 →東インド会社の船舶を襲撃 | |
1774年 | 第1回大陸会議 →アメリカとイギリスの対立が決定的に |
1775年4月 | レキシントンとコンコードで武力衝突 →アメリカ独立戦争開戦(~1783年) |
1775年5月 | 第2回大陸会議(~1781年3月) →ワシントンが植民地側の総司令官に |
1776年1月 | トマス=ペインが 著書『コモン=センス』を出版 |
1776年7月4日 | 『アメリカ独立宣言』採択 起草者はジェファソン |
1777年 | サラトガの戦い →フランス参戦のきっかけになる |
1780年 | ロシアのエカチェリーナ2世の提唱で 武装中立同盟結成 →イギリスは国際的に孤立 |
1781年 | ヨークタウンの戦い →アメリカの勝利が決定的になる |
1783年 | パリ条約 →イギリスがアメリカの完全独立を承認 |
1787年 | 合衆国憲法制定 →連邦主義や厳格な三権分立を規定 |
1789年 | 連邦政府発足 初代大統領はワシントン |
1791年 | 権利章典制定 →国民の権利保障 |
そこまで複雑な経過を辿ったわけではないので、一つ一つ丁寧に整理していけば必ず理解できます!
こまめな復習をして頭に入れていきましょう!
こちらの問題を解いて復習をしてみるのもオススメです!
次のフランス革命についてはこちらの記事にまとめてあります。