今回はフランスの英雄ナポレオン・ボナパルトが実権を握り、第一帝政が始まってから終わるまでを見ていきたいと思います。
以前に書いたフランス革命からの続きでもあるので、まだ見ていない方はこちらの記事も是非見てみてください。
それではいきましょう!
この講座の難易度は★★★★☆です。
ナポレオンの生い立ち
まずは、ブリュメール18日のクーデターで統領政府を樹立するまでのナポレオンの生い立ちを軽く見ていきたいと思います。
生い立ちはどうでも良くて前回の続きから勉強したいという方は「第一帝政が始まるまで」にジャンプしてくださいね。
ナポレオンは1769年に、イタリア半島の西に位置するコルシカ島の古い貴族の家に生まれました。
その後、フランスの陸軍士官学校に進学して砲兵科を専門として学び、開校以来最短の11ヶ月で卒業します。
学生時代は友達が少なくて読書を好む内向的な少年だったようですが、士官学校に入る前に通っていた陸軍幼年学校では後にナポレオンの個人秘書となるブーリエンヌと知り合っています。
ナポレオンが16歳になった1785年に砲兵士官として任官してからしばらくしてフランス革命が始まりますが、当初は革命に対して無関心でした。
しかし、1794年に貴族士官が亡命して空いたポストに入る形で大尉に就任し、反革命軍を大砲を用いた妙策で鎮圧したことで、24歳にしてフランスの若き英雄として旅団陸将にまで上り詰めたのです。
その後はロベスピエールがテルミドールの反動で失脚した影響で一時的に投獄されてしまいますが、1795年に王党派の反乱を再び大砲を用いた妙策で鎮圧し、師団陸将に昇進します。
1796年には未亡人であったジョゼフィーヌへ熱烈なプロポーズをして結婚し、イタリア遠征に向かいます。
この戦いでオーストリア軍を撃破し、カンポ・フォルミオ条約を締結して第1回対仏大同盟を崩壊させることに成功したのです。
その後はフランス革命の記事で書いたように、エジプト遠征に向かいました。
ちなみにこの時に、かの有名なロゼッタ・ストーン*¹も発見されています。
そして第2回対仏大同盟の結成に対応するため、本国に帰還してシェイエスらとブリュメール18日のクーデターを起こします。
総裁政府を打倒したナポレオンは統領政府を樹立し、自らが第一統領となることで政権の実権を握ったのです。
*¹ロゼッタ・ストーン…古代エジプトのファラオであるプトレマイオス5世の勅令が刻まれた石柱。
同一の内容の文章が上段から神聖文字(ヒエログリフ)・民衆文字(デモティック)・ギリシア文字の順番で記されていたため、ヒエログリフ解読の貴重な手掛かりとなりました。
第一帝政が始まるまで
第2回対仏大同盟への対応
統領になったナポレオンはまず、第2回対仏大同盟に対する対応を迫られます。
1800年の第二次イタリア遠征で、ナポレオンの軍はオーストリアにマレンゴの戦いで勝利します。
また、モロー将軍の軍がホーエンリンデンの戦いにも勝利したことで、オーストリアはフランスとの講和に応じざるを得なくなったのです。
フランスはオーストリアと1801年にリュネヴィルの条約を結び、更にイギリスとも1802年にアミアンの和約を結んだことで第2回対仏大同盟は崩壊することになります。
ナポレオンの内政改革
対外的な問題を一段落させた一方で、ナポレオンは内政改革にも取り組んでいます。
代表的な施策は以下の3つです。
- フランス銀行の創設(1800年)
- レジオンドヌール勲章の創設(1802年)
- ナポレオン法典(フランス民法典)の発布(1803年3月)
フランス銀行はフランスの中央銀行で、日本でいう日本銀行と同じ立ち位置です。
レジオンドヌール勲章は今でも授与され続けているフランスの最高位勲章で、国民栄誉賞みたいなものと考えればOKです。
しかし、この中で一番大事なのはナポレオン法典(フランス民法典)を発布したことです!
ナポレオン法典は、各地の慣習法や封建法を統一した民法典で、契約の自由や私有財産の不可侵、法の下の平等などの現代にも通じる価値観が取り入れられた画期的なものでした。
そのため、この法典の発布が、フランス革命の努力の結実とも言えます。
そして1804年5月、ナポレオンは国民投票を実施して皇帝に即位します。
これによって、王政の廃止と国民公会設立から始まったフランスの第一共和政は終わり、ナポレオンの第一帝政が始まったというわけです。
ナポレオンのヨーロッパ制覇
第3回対仏大同盟の結成と崩壊
ナポレオンの皇帝就任によって、フランスの覇権がヨーロッパ全土に及ぶことを恐れたイギリス首相のピットは、再び周辺諸国に呼びかけ、1805年に第3回対仏大同盟が結成されます。
こうしてヨーロッパ制覇を目指すナポレオンVS第3回対仏大同盟の戦いが始まることになるのです。
ナポレオンは最初にイギリス本土上陸を目指しましたが、1805年にトラファルガーの海戦でネルソン提督率いるイギリス艦隊に大敗を期したことで、イギリス上陸を断念し、大陸制覇へと方針を切り替えます。
そして同年に、オーストリア・ロシア軍にアウステルリッツの戦いで勝利したことで、オーストリアとプレスブルク条約を結び、第3回対仏大同盟を崩壊させることに成功したのです。
この戦いはフランスのナポレオン1世、オーストリアのフランツ1世、ロシアのアレクサンドル1世の3皇帝が一堂に会して戦ったことから、三帝会戦とも言われています。
その後は1806年に、オーストリアやプロイセンが排除された神聖ローマ帝国内のドイツ領全てをライン同盟という形で再編します。
これによって、約1000年も続いた神聖ローマ帝国は消滅することになったのです。
ここまでの流れを図解すると次のようになります。
*¹画像引用元:【フリー絵画】ジョン・クリスチャン・シェットキー「トラファルガーの海戦」(1841) – パブリックドメインQ:著作権フリー画像素材集
ナポレオンによる支配の拡大
プロイセンはライン同盟を結成したフランスに対抗するため、イギリスやロシアなどと同盟を組んで同年にイエナの戦い・アウエルシュタットの戦いを仕掛けます。
しかし、この戦いでもフランスは大勝し、後の1807年にはティルジット条約をプロイセン・ロシアと結び協調関係を築きます。
このティルジット条約でプロイセンから割譲された領土で、ポーランドにはワルシャワ大公国を、ドイツにはヴェストファーレン王国をフランスの傀儡国家として建国します。
更にイタリアやスペインなどにも傀儡政権を置いたことで、ナポレオンの支配地域はヨーロッパの大部分に及ぶようになったのです。
これらの傀儡政権のトップの多くはナポレオンの一族*¹が任命されていました。
しかし、スペインには傀儡政権こそ置いたものの、1808年から始まったスペイン反乱(スペイン独立戦争)におけるゲリラの激しい抵抗もあり、完全に鎮圧することはできませんでした。
また、ヨーロッパ征服の傍らで、後継となる男児に恵まれなかったジョゼフィーヌと離婚し、オーストリア皇帝フランツ1世の長女マリー=ルイーズと結婚し、翌年には待望の男児*²が生まれます。
*¹ナポレオンは12人いた子供(ただし、4人は若くして亡くなっている)の4番目として生まれていたので、兄弟がたくさんいました。
傀儡政権のトップに置いた例としては、兄のジョゼフをナポリ・スペイン王に、弟のルイはオランダ王にしたことなどが挙げられます。
*²この男児が俗に言うナポレオン2世です。
しかし、彼は病弱だったため21歳の若さでこの世を去りました。
後に出てくるナポレオン3世は、ナポレオン1世の甥に当たります。
ナポレオンの没落
ナポレオンは、産業革命が始まったイギリスをヨーロッパ市場から締め出すために、1806年に大陸封鎖令を出します。
しかし、この大陸封鎖令は植民地を多く持っていたイギリスにはさほどダメージがない一方で、世界の工場であるイギリスと交易をしたいフランス国民や同盟国の多くの反発を招いてしまったのです。
特にロシアは大陸封鎖令を破ってイギリスと貿易を行っていたため、1812年にナポレオンはロシア(モスクワ)遠征を開始します。
しかし、ロシアはナポレオンの軍との直接的な戦闘を避け、フランス軍の進路の街にある物資や食料を焼き払う焦土戦術を展開します。
つまり、ひたすら逃げてナポレオンの軍を消耗させようとしたわけです。
そのため、ナポレオンの軍はモスクワへの入城こそ果たしますが、厳しいロシアの気候の中で軍内に病気が蔓延し、兵站*¹の確保に失敗してロシア軍を倒すこともできなかったために撤退を余儀なくされたのです*²。
そして、ロシア遠征の失敗をきっかけに、プロイセンやロシアを始めとした反仏同盟軍が結成され、フランスとの戦いが開始されます。
最初こそ辛勝していたものの、次第に追い詰められていき、1813年のライプツィヒの戦い(諸国民戦争)でナポレオンの軍は反仏同盟軍に大敗してしまいます。
翌年の1814年にはパリが陥落し、ナポレオンは皇帝を退位してエルバ島へ流されてしまったのです。
その後、退位したナポレオンに代わって、ブルボン朝からルイ18世が即位したことで王政が復活し、第一帝政は終焉を迎えました。
*¹兵站…戦争を継続するために必要な物資や人材、施設その他諸々の活動などの総称
*²このロシア遠征におけるフランスの敗退は冬将軍の語源にもなりました。
ナポレオンの百日天下
ナポレオンが失脚した後、ヨーロッパ諸国が集まりナポレオン戦争後の欧州の秩序維持をどうするかをウィーン会議で話し合っていました。
しかし、各国の利害が対立したことで、「会議は踊る、されど進まず」と評されるように、中々進展がありませんでした。
そんな中、ナポレオンがエルバ島を脱出してパリへ帰還し再び皇帝に復帰したのです。
復帰したナポレオンは、イギリスやオランダを中心とする連合国軍と1815年にワーテルローの戦いで決戦を挑みますが結局大敗し、セントヘレナ島へ流されて1821年にこの地で死去します。
ナポレオンが皇帝に復帰してから、ワーテルローの戦いに大敗して失脚するまでがほぼ100日間だったため、この期間を百日天下と言います。
まとめ
それでは最後に、今回の講座で扱った出来事を年表で復習しましょう!
なお、ナポレオンの生い立ちから統領政府を樹立するまでは年表では省略しています。
また、今回は戦いが多かったので、年表に簡単な勝敗も載せておきました。
1800年 | フランス銀行創設 | |
第二次イタリア遠征 ・マレンゴの戦い ・ホーエンリンデンの戦い | 墺に勝利 | |
1801年 | リュネヴィルの条約 | 墺と講和 |
1802年 | アミアンの和約 | 英と講和 |
レジオンドヌール勲章創設 | ||
1803年3月 | ナポレオン法典発布 | |
1804年5月 | ナポレオンが皇帝に即位 | |
1805年 | 第3回対仏大同盟結成 | |
トラファルガーの海戦 →イギリス本土上陸を断念 | 英に大敗 | |
アウステルリッツの戦い (三帝会戦) | 墺・露に勝利 | |
プレスブルク条約 →第3回対仏大同盟崩壊 | 墺と講和 | |
1806年 | ライン同盟結成 →神聖ローマ帝国消滅 | |
イエナの戦い アウエルシュタットの戦い | 普が中心の 連合軍に勝利 | |
大陸封鎖令 | ||
1807年 | ティルジット条約 | 普・露と協調 |
1808年 | スペイン反乱 (スペイン独立戦争) | 西が中心の 連合軍に敗北 |
1812年 | ロシア(モスクワ)遠征 | 露に大敗 |
1813年 | ライプツィヒの戦い (諸国民戦争) | 反仏同盟軍に大敗 |
1814年 | パリ陥落 →ナポレオン皇帝を退位 →エルバ島へ流される | |
1815年 | ワーテルローの戦い →セントヘレナ島へ流される →百日天下が終了 | 英・蘭が中心の 連合軍に大敗 |
1821年 | セントヘレナ島で死去 |
普…プロイセン 西…スペイン 蘭…オランダ
ナポレオンが皇帝に即位して栄光を掴んでから没落するまで、その生涯はひたすら戦いの日々でした。
そんなナポレオンについてもっと知りたい方は自分でもっと調べてみても良いですし、このような漫画を読んでみることもオススメします!
私も昔これを読んでいましたが、大まかなストーリーを理解するという意味では、漫画を読むのは本当に良いことだと思います!
また、今回の講座で学んだことをこちらの問題を解いて復習をするのもオススメです!
ちなみに、ナポレオンが失脚した後は、ウィーン会議で成立したウィーン体制によってしばらく革命前の状態に逆行することになります。
それについてはこちらの記事でまとめてありますので続きを勉強したい方は見てみてください。