フランス革命の原因と流れ|三部会召集からナポレオンまで【世界史】

バスティーユ牢獄 解説

今回はフランス革命が起こった原因と流れを解説していきたいと思います。

フランス革命の範囲は場合によって変わりますが、この講座ではナポレオンが統領政府を樹立するまでを取り扱います。

フランス革命は政権の移り変わりが激しくて整理するのが大変です。

しかし、一つ一つの流れや因果関係を整理すれば決してできないことではありません!

以前に日本史の勉強でも紹介しましたが、歴史の勉強では因果関係を把握することが大事です。

今回もその精神で勉強していきましょう!

こちらの記事で紹介していることは世界史の勉強でも同じように当てはまるので、世界史の勉強に悩んでいる方は是非一度見てみてくださいね。

ちなみに、フランス革命の前の内容であるアメリカ独立戦争については、こちらの記事にまとめてあります。

Homura
Homura

この講座の難易度は★★★☆☆です。

革命前の旧制度

革命前のフランスの社会は旧制度(アンシャン・レジーム)と言われています。

この旧制度の下では、国民は次の3つの身分に分けられていました。

  • 第一身分聖職者|免税特権を持っている
  • 第二身分貴族|免税特権を持っている
  • 第三身分平民|重税負担

第一身分と第二身分はいわゆる特権階級で、免税特権を持っていたり重要な官職を独占しています。

一方で国民の約98%が第三身分の平民であり、身分別議会である三部会に代表を送り込む権利は持っていたものの、基本的に国政には関与できず、重い税負担を強いられていたのです。

フランス革命が始まるまでの経緯

今回は長丁場になるので、ここからは3つの段階に分けて解説していきたいと思います。
いきなり全部を読むのは大変だと思うので、分けて読み進める際の指標にしてください。

まずはフランス革命の始まりとされるバスティーユ牢獄襲撃が起こるまでの経緯を見ていきましょう。

財政難

ルイ14世・15世の時代は対外戦争が積極的に行われています。

その戦争の戦費や王の散財などが重なったことで、政府は深刻な財政難に陥ってしまったのです。
特に、アメリカ独立戦争に介入したことは財政破綻を決定的なものにしてしまいます。

お金がなくて悩んでいる人

ルイ16世はテュルゴー(重農主義財政家)、ネッケル(銀行家)のような改革派の人達を登用してまで財政難を解消しようと努めます。
特にネッケルに関しては第三身分(平民)出身の銀行家ということもあり、既になりふり構っていられない状況だったことが分かりますね。

しかし、貴族をはじめとした保守勢力の反対などもあって財政改革は失敗に終わり、王妃マリー・アントワネットやその寵臣に質素倹約を提案して疎まれていたネッケルも罷免されてしまいます。

その後、後任のブリエンヌも財政改革に失敗したため、再びネッケルに白羽の矢が立ちます。

この時、ネッケルは民衆を味方につけて財政改革を行うために、三部会の開催を就任の条件とし、ルイ16世も渋々これに同意しました。

三部会の召集と国民議会の結成

1789年5月、三部会*¹の召集が行われましたが、議決方法を身分別にするか、人数別にするかをめぐって第一・第二身分と第三身分が激しく対立することになります。

三部会が膠着して約一か月後の6月、第三身分は独自に会合を開くようになっていました。
そこに多くの聖職者と一部の貴族も加わり、自分たちこそ真の国民の代表であるとして国民議会を結成したのです。

この国民議会の中心人物には、貴族出身でありながら第三身分の議員資格を持っていたミラボー*²や『第三身分とは何か』を著したシェイエス*³などがいます。

ルイ16世は議会を軍隊で押さえつけようと議場を閉鎖しましたが、国民議会はヴェルサイユ宮殿の球戯場に集まり、憲法が制定されるまでは決して解散しないことを誓い合います。
これを球戯場(テニスコート)の誓いと言います。

国王政府と国民議会の対立は深刻なものとなり、やがてルイ16世もやむなく国民議会を認め、三部会は解散されます。
そして、7月には国民議会に吸収される形で憲法制定国民議会と改称されます。


*¹三部会…この三部会の開催はルイ13世の時に開かれた1615年以来のことで、実に約170年ぶりのことでしたが、その後の三部会解散もあり、これが最後の三部会となりました。

*²ミラボー…彼は国民から絶大な人気を得ていましたが、死後にルイ16世と賄賂の繋がりが発覚しました。
彼の死は後に国王一家亡命未遂事件であるヴァレンヌ事件にも繋がることになります。

*³シェイエス…彼は後に国民公会委員長や総裁政府末期の総裁に就任し、ナポレオンと共謀してブリュメール18日のクーデターを起こしました。

バスティーユ牢獄襲撃

軍隊による議会の威嚇や国民からの支持を得ていたネッケルがマリー・アントワネット一派に罷免されたことで、国民の怒りは爆発することになります。

1789年7月14日、数万人規模の群衆が廃兵院*¹に押しかけ大量の武器と弾薬を調達し、更に弾薬を調達するためにバスティーユ牢獄に向かいます。

最初は交渉が図られましたが難航したことで遂に戦闘が開始され、バスティーユ牢獄は数時間の内に陥落したのです。
これが有名なバスティーユ牢獄襲撃です。

バスティーユ牢獄襲撃
ロベール『バスティーユ牢獄』1789年

このバスティーユ牢獄襲撃を契機として全国的な農民の反乱が起こり、領主の館が襲われることになります。

これがフランス革命の始まりとされています。


*¹廃兵院…ルイ14世の時に建築された軍病院。附随している礼拝堂は建築史上有名。

共和制の樹立

次は王政が廃止されて共和制(第一共和政)が樹立されるまでの流れを見ていきましょう。

人権宣言の採択

バスティーユ牢獄襲撃事件を受けて全国で起こった農民の反乱を収拾するために、国民議会に所属する聖職者や貴族自らが1789年8月4日に封建的特権の廃止を宣言します。

そして1789年8月26日、国民議会は『人間と市民の権利の宣言』、俗に言う『人権宣言』が採択されます。

人権宣言はラ=ファイエットらによって起草され、人間の自由と平等、人民主権、言論の自由、私有財産の不可侵などが規定されていました。

しかし、ルイ16世は国民議会が採択した『人権宣言』を認めようとしませんでした。

ヴェルサイユ行進(十月事件)

1789年10月、パリ市民はパンをはじめとした食料品の高騰に苦しんでいました。
理由は、前年から凶作が続いていたことに加えて、商人が買い占めを行っていたからです。

しかし、ヴェルサイユ宮殿では変わらず豪華な宴が開かれ、更に近衛兵の一人がパリ市民を象徴する三色帽章(トリコロール)をルイ16世の御前で踏みにじったという報せを受けて、パリ市民の怒りは爆発することになります。

パリ広場に集まった群衆は女性を中心として、ヴェルサイユ宮殿への行進を開始したのです。

行進

その後到着した群衆は宮殿に乱入、ルイ16世は『人権宣言』を認めたものの、群衆はそれだけでは納得せず、国王一家はパリへ連行され、議会もパリへと移されます。

この事件を受けて多くの宮廷貴族が亡命し、国王一家はパリ市民から事実上監視されて生活することになってしまいます。

この出来事をヴェルサイユ行進(十月事件)と言います。

党派の形成とヴァレンヌ事件

ヴェルサイユ行進の後、革命運動を指導する組織はジャコバン=クラブを中心として、そこからいくつかの党派に分かれていきます。
代表的なのは次の3つです。

  • フイヤン派(立憲君主派・右派)
  • ジロンド派(共和派・中間派)
  • ジャコバン派山岳派*¹・左派)

こうした分裂が起きたのは、元々革命組織が主張が異なっていた者同士の集まりだったということもありますが、一つの大きな要因は1791年6月に起きたヴァレンヌ(逃亡)事件にあります。

これは国王ルイ16世、王妃マリー・アントワネットなどの国王一家がミラボーの病死を機に更なる革命の進展を恐れ、王妃の母国であるオーストリアへの亡命をはかり失敗した事件です。

この事件によって国王の権威は完全に失墜し、共和制の実現を望む声が強まります。
しかし、どのような方法で共和制を実現するかで対立が起きたのです。

それぞれの派閥の大まかな考え方は以下の表の通りです。

派閥政治思想国王の処遇
フイヤン派立憲君主制*²立憲君主
ジロンド派穏健的な共和制処刑は反対
ジャコバン派急進的な共和制処刑すべき

最初はフイヤン派が主導権を握っていましたが、後にジロンド派、ジャコバン派へと主導権は移り変わっていくことになります。


*¹山岳派…名前の由来は国民公会の議場で最も高い議席を占めていたことに由来します。

*²立憲君主制…それまでの絶対王政の下で主流だった国王の権力は神に与えられたものであるとする王権神授説とは異なり、国王の権力が憲法の下で与えられ規制されている政治体制。

立法議会の成立と解散

1791年9月、フイヤン派政権の下で立憲君主制を採用したフランス最初の憲法である1791年憲法が成立します。

これと同時に憲法制定国民議会は解散され、新憲法に基づき、制限選挙の立法議会が招集されます。

しかし、その後フイヤン派とジロンド派が対立し、結果としてフイヤン派の内閣は崩壊してしまいます。
崩壊したフイヤン派の内閣に代わって、今度はジロンド派の内閣が成立することになります。

ジロンド派の内閣は外国勢力が革命に関与してくることを危惧して、1792年オーストリア・プロイセンとの戦争を決定します。

しかし、敗戦を望む国王と王妃によって作戦が敵国に内通していたり、軍隊の将校が依然として貴族で士気が低かったりしたこともあり、戦況は苦しいものになってしまいます。

こうした戦況を受けてジロンド派内閣は失脚、フイヤン派が復権しましたが戦況は打開できませんでした。

この状況を議会は「祖国は危機にある」として非常事態宣言を出します。

このフランスの危機を脱するため、各地から義勇兵(連盟兵)がパリに集まったのです。

しかし、国王一家が内通している疑いがあったことなどから、集まった義勇軍は王権を停止しなければならないと判断して1792年8月10日、国王一家がいるテュイルリー宮殿を包囲して襲撃します。
結果としてルイ16世とマリー・アントワネットは捕まり、王権は停止され、立法議会も解散されることになります。

この事件を8月10日事件と言います。

ここら辺の流れは、『進撃の巨人』を見たことがある人は王政編をイメージすると理解しやすくなるかもしれませんね。

国民公会の成立

8月10日事件を受けて解散された立法議会に代わって、1792年9月に世界初の男性普通選挙国民公会が成立します。

国民公会は王政の廃止と共和制の樹立を宣言したことで絶対王政は終わり、第一共和政が始まったのです。

国民公会では当初ジロンド派とジャコバン派が対立していましたが、やがてジャコバン派が優勢となり、1793年1月ルイ16世はギロチンにかけられて処刑されてしまいます。

フランス革命の終結

最後はジャコバン派の恐怖政治からナポレオンが統領政府を樹立し、革命が終結するまでを見ていきましょう。

ジャコバン派の恐怖政治

イギリス首相ピットは、ルイ16世の処刑を契機として革命運動がヨーロッパ中に波及することを危惧します。

そこで、オーストリア・プロイセン・ロシアをはじめとしたフランス周辺の国々に呼びかけ第1回対仏大同盟を結成したのです。

一方その頃、フランス国内ではサンキュロット*¹の支持を受けたジャコバン派が完全に優勢になり、国民公会を包囲し、革命を終結させようとしていたジロンド派を追放します。

政権を握ったジャコバン派の中心人物の一人であるロベスピエールは、革命の執行機関である公安委員会に選出され、政敵や反対派を容赦なくギロチンで処刑する恐怖政治を行ったのです。

ギロチン

この処刑によって、開戦を決断しながら戦況を打開できないジロンド派、王妃マリー・アントワネット、ロベスピエールと対立したエベール(左派)やダントン(右派)などが排除されていきます。

恐怖政治の一方で、男性普通選挙を規定した1793年憲法、最高価格令*²の制定や、徴兵制・革命暦導入、メートル法の制定などの政策を推し進めました。


*¹サンキュロット…キュロットは貴族が着用していた半ズボンのことで、サンキュロットはキュロットをはかない人、つまり一般市民を意味しています。
彼らはパリの中では貧困層に属す無産市民であり、フランス革命期には革命を推進する主要な社会階層でしたが、テルミドールの反動を境に弱体化し、その後の総裁政府や統領政府の弾圧によって完全に勢力を失ってしまいました。

*²最高価格令…小麦を始めとした食料品の高騰を抑制するために、それらの最高価格を定めた法律。
しかし、食料品をなるべく高く売りたいブルジョワジーや農民はこの法律に強く反発し、後のテルミドールの反動の一因にもなってしまいました。

総裁政府の樹立

ロベスピエールの恐怖政治に対する不満はどんどん膨らんでいき、遂に1794年7月にクーデターが発生します。
ロベスピエールは反対派にギロチンで処刑され、ジャコバン派の独裁政府は倒されることになります。

この出来事をテルミドールの反動(テルミドール9日のクーデター)と言います。

テルミドールの反動で倒されたジャコバン派に代わって、穏健共和派が指導権を回復し、1795年に新憲法を制定します。

そして国民公会は解散され、普通選挙から制限選挙に逆戻りし、二院制の立法府と議会から選出された5人の総裁が実権を握る総裁政府(ブルジョワ共和政府)が樹立されたのです。

ナポレオンの台頭と統領政府樹立

新たに樹立された総裁政府の下では政治的に不安定な状況が続いていました。

その一方で1796年頃に戦争で連戦連勝していたフランス軍人のナポレオン=ボナパルトが頭角を現していったのです。

ナポレオン・ボナパルト

そんな中、ナポレオンは敵国イギリスとインドの英印交易の中継地となっていたエジプトを押さえるためエジプト遠征に向かうことになります。

しかし、イギリスのネルソン提督にフランス艦隊が大敗したことで、ナポレオンの軍はエジプトに孤立してしまうことになります。

そして1799年、フランスの対外進出を恐れたイギリスはオーストリアやロシアに呼びかけて第2回対仏大同盟を結成します。

この報せを受けたナポレオンは部下に軍を任せ、自分は側近を連れて単身フランスへと帰国します。

帰国したナポレオンは1799年11月、シェイエスらと共謀してクーデターを起こし、総裁政府を打倒したのです。

このクーデターをブリュメール18日のクーデターと言います。

打倒された総裁政府に代わって新たに3人の統領(執政)からなる統領政府(執政政府)を樹立し、ナポレオン自らが第一統領となることで政権の実権を握り、フランス革命は終結したのです。

まとめ

それでは、まとめとして今回の講座で扱った出来事を年表で確認していきましょう!

1789年5月三部会の召集
1789年6月国民議会の結成
球戯場(テニスコート)の誓い
1789年7月憲法制定国民議会へと改称
1789年7月14日バスティーユ牢獄襲撃
1789年8月4日封建的特権の廃止
1789年8月26日人権宣言の採択
1789年10月ヴェルサイユ行進(十月事件)
1791年6月ヴァレンヌ(逃亡)事件
1791年9月1791年憲法制定・立法議会招集
1792年8月10日8月10日事件
1792年9月国民公会成立(第一共和制の開始)
1793年1月ルイ16世処刑
1793年第1回対仏大同盟の結成
ロベスピエールの恐怖政治開始
1794年7月テルミドールの反動
(テルミドール9日のクーデター)
1795年新憲法の制定と総裁政府の樹立
1799年第2回対仏大同盟の結成
1799年11月ブリュメール18日のクーデター
統領政府(執政政府)の樹立

フランス革命は約10年の期間の間にここまで目まぐるしく政権が移り変わっていったので、整理するのも一苦労だと思いますが、この記事で少しでも理解が深まってくれたら嬉しいです。

今日学習した内容の定着のために以下の確認問題にも挑戦するのもオススメします!

ちなみに、このフランス革命の続きとなるナポレオンの第一帝政についてはこちらの記事でまとめてありますので、良かったらこちらも見てみてくださいね。

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