ルターの宗教改革|贖宥状販売の経緯からルター派の公認まで【世界史】

ルターの宗教改革 解説

今回からは16世紀を中心に盛んになったヨーロッパの宗教改革を見ていきたいと思います。

最初はルターのドイツだけでなく、カルヴァンやイギリスなどについてもまとめるつもりでしたが、それだと記事がかなり長くなりそうだったので、前後編に分けて解説していきたいと思います。

まずは前編、一番有名なルター(ドイツ)の宗教改革から見ていきましょう!

Homura
Homura

この講座の難易度は★★★☆☆です。

贖宥状の販売

宗教改革の発端となったのは、当時のローマ教皇レオ10世が「サン=ピエトロ大聖堂の建築費用を集めるため」という名目で贖 宥 状しょくゆうじょうの販売を認めたことでした。

贖宥状の「贖」は、罪の償いや罪滅ぼしを意味する贖罪と同じように「あがない」を意味しています。
そして「宥」は、相手を寛大に扱って仲良くする宥和から連想できるように「ゆるす・やわらげる」などの意味があります。

つまり、贖宥状は教会へお金を支払うことで罪の償いをし、その罪を軽減したという証明書なのです。
そのため、贖宥状は日本では「免罪めんざい」とも呼ばれています。

免罪符

この贖宥状の販売自体は、11世紀中頃から十字軍に対して殺しの罪の贖宥のために始まったものでしたが、次第に手頃な集金手段として頻繁に行われるようになります。

お金を払うだけで天国に行けるなんて言われたら信者はみんな欲しがりますからね。

そして、レオ10世の時に贖宥状が販売されたのは、サン=ピエトロ大聖堂の建築費用の他に、大きく次の2つの理由があります。

  1. レオ10世の贅沢による教会の財政難
  2. マインツ大司教アルブレヒトの借金返済

レオ10世の贅沢による教会の財政難

レオ10世は、ルネサンス期のイタリアのフィレンツェで大きな力を持っていたメディチ家の出身でした。

そのため、教皇になってからも贅沢な暮らしをするために、高利貸資本家のヤコブ=フッガー*¹から多額の借金をしていたわけです。

それによって、教皇庁は財政難に陥ってしまいます。


*¹フッガー家は当時鉱山経営などに成功して巨万の富を築いており、その財力はメディチ家を凌ぐものでした。

マインツ大司教アルブレヒトの借金返済

マインツ大司教とは、当時のドイツにおけるカトリックの最高位の聖職者の地位です。

この地位を得るために、マクデブルクの大司教だったアルブレヒトは、先ほども出てきたヤコブ=フッガーから同じく多額の借金をしていたわけです。

この借金の弁済は、マインツ大司教の正規収入だけで賄うのは不可能なほど巨額でした。

そのため、借金に苦しんでいたレオ10世とアルブレヒト、借金を返してもらいたいフッガーの3人が結託して、贖宥状の販売を始めたわけですね。

贖宥状販売のきっかけ

ルターの宗教改革

九十五カ条の論題

ローマ教皇レオ10世による贖宥状販売に対して強い批判をしたのは、ドイツのヴィッテンベルク大学の神学教授であったマルティン=ルターでした。

マルティン・ルター

1517年10月31日*¹にルターはヴィッテンベルク城内の教会の門扉に九十五カ条の論題を発表し、ヴィッテンベルクでの討論を呼びかけます。

これが宗教改革の始まりになったと言われていますが、ルター自身は討論会の告知をしただけでヨーロッパ中を巻き込む宗教改革が起こるとは思っていなかったでしょう。

それは、九十五カ条の論題の原文が一般市民には理解できないラテン語*²で書かれていたことからも推察できます。

しかし、九十五カ条の論題はルネサンス期の三大発明の一つでもある活版印刷によってドイツ語版が印刷されて瞬く間にドイツ中に広がり大きな反響を呼ぶことになります。

以下に引用したのは、九十五カ条の論題の第二十七条の内容で、当時の贖宥状販売の宣伝文句でした。

第二十七

かれらは人に説教して,金銭が箱になげいれられて,音がするならば,

霊魂は〔煉獄れんごくから〕とびにげる,といっている。

「九十五カ条の論題」(1517年)(『新訳世界史史料・名言集』山川出版社より)

このように九十五カ条の論題の内容は贖宥状販売に対する批判が中心でした。


*¹この10月31日は、現在では宗教改革記念日となっています。

*²ラテン語は当時の教会や学会における標準言語でした。

ライプツィヒ討論

ライプツィヒ討論とは、1519年に2週間以上にわたって行われた公開討論会です。

この討論会が行われたのは、ヨハン=エックという神学者がルターに反対する論説を展開したことに起因します。

この討論会における対立構図は次のようなものでした。

カールシュタット*¹&ルター
      VS
   ヨハン=エック

この討論会において、エックの誘導尋問もあって、ルターは教皇の権威を否定する意見まで述べます。

そして、ルターは「人は善行ではなく、信仰によってのみ義とされる信仰義認説・聖書の教えのみに従う聖書中心主義の立場をとります*³。

しかし、教皇の権威を否定したことがきっかけとなり、1521年に神聖ローマ皇帝のカール5世にヴォルムス帝国議会でルターはこうした自説の撤回を要求されます。

しかし、ルターはこれを拒否し、1521年にはレオ10世からルターは破門されてしまい、カトリックとは絶縁することになってしまいます。

カトリックから絶縁された後は、ザクセン選帝侯フリードリヒ3世に保護されながらヴァルトブルク城*⁴で聖書のドイツ語訳を完成させます。

このドイツ語訳の聖書は、1520年に発表した『キリスト教の自由』などの著作と合わせて宗教改革に大きな影響を与えることになります。


*¹ルターの盟友の一人。

*²ルターや宗教改革の風潮に強く反対していたカトリックの名高い神学者。

*³この2つは宗教改革のおけるプロテスタントの三大原理の一つであり、信仰義認はプロテスタント信仰の根幹でもあります。
ちなみに、三大原理のもう一つは万人祭司主義です。

*⁴ヴァルトブルク城は後の1817年のブルシェンシャフト運動の舞台の一つにもなります。
気になる方はこちらの記事のブルシェンシャフト運動の項目も読んで関連付けておきましょう。

各階級の蜂起と宗教戦争

騎士戦争

1522年にフッテンやジッキンゲンなどの騎士階級の者達が中心となって反乱を起こしましたが、すぐに鎮圧されてしまいます。

この出来事を騎士戦争(~1523年)と言います。

ドイツ農民戦争

ルターの宗教改革を支持していた神学者トマス=ミュンツァーを指導者とした農民達は、ルターの「聖書に書かれていないことは認められない」という意見を農奴制や領主制の廃止と結び付けていきます。

そして、1524年に農奴制や領主制の廃止を訴える「12ヶ条の要求」を掲げて反乱を起こしたことで、ドイツ農民戦争が始まります。

ルターは当初この反乱を支持していましたが、ミュンツァーらの行動が過激化していくと諸侯(領主)側を支持するようになり、諸侯(領主)には反乱の鎮圧を、農民には暴力ではない平和的な抵抗を訴えます。

この大規模な農民の反乱はドイツ中に広がりましたが、翌1525年には鎮圧されます。

シュマルカルデン戦争

当時のヨーロッパはこうした宗教対立だけでなく、オスマン帝国の進出をはじめとした対外事情もあり、様々な政治的な思惑が複雑に絡んでいました。

こうした状況に危機感を抱いたカール5世は、1526年の第1回シュパイアー帝国議会においてルター派の布教を容認する決議を出します。

この決議はルター派の急速な拡大のきっかけとなり、ルター派の急拡大を警戒したカール5世は、1529年の第2回シュパイアー帝国議会にてルター派を再び禁止する決議を出します。

この決議に対してルター派は強く抗議(protest*¹)し、1530年にはルター派の諸侯や都市の間でシュマルカルデン同盟が結ばれます。

カール5世は、フランスとのイタリア戦争に注力していましたが、1545年トリエント公会議で旧教(カトリック)側が結束した事を契機として、1546年には旧教と新教の間でシュマルカルデン戦争(~1547年)が勃発します。

この戦いの結果、カール5世の旧教側が勝利し、新教側は敗北してしまったのです。


*¹こうしたカトリック・ローマ教会への抗議(protest)が、プロテスタント(protestant)という呼び名の由来になりました。

アウクスブルクの宗教和議

シュマルカルデン戦争において新教側は敗北しましたが、これがきっかけとなって1555年には新教の中でルター派のみを容認する決議が出されます。

これをアウクスブルクの宗教和議と言います。

これによって、諸侯・・はカトリックとルター派を選択する自由が与えられます。

しかし、アウクスブルクの宗教和議において認められたのはあくまでルター派のみで、カルヴァン派や個人・・の信仰の自由までは認められませんでした。

アウクスブルクの宗教和議

まとめ

それでは、ここまで見てきたルター(ドイツ)の宗教改革について年表でまとめていきましょう。

1517年10月31日ルターが『九十五カ条の論題』を発表
→レオ10世の贖宥状販売を批判
1519年ライプツィヒ討論
→ルターが破門されるきっかけになる
1520年ルターが『キリスト教の自由』を発表
1521年ヴォルムス帝国議会
→カール5世がルターに自説の撤回を要求
→ルターはこの要求を拒絶
レオ10世がルターを破門
1522年(~23年)騎士戦争
→鎮圧
1524年(~25年)ドイツ農民戦争(ミュンツァーが指導)
→鎮圧
1526年第1回シュパイアー帝国議会
→カール5世がルター派の布教を容認
1529年第2回シュパイアー帝国議会
→カール5世がルター派を再禁止
1530年シュマルカルデン同盟成立
→プロテスタント(新教)の諸侯や都市が結託
1545年トリエント公会議
→カトリック(旧教)側が結託
1546年(~47年)シュマルカルデン戦争
→新教側が敗北
1555年アウクスブルクの宗教和議
→新教の中でルター派のみ容認

残りのカルヴァンやイギリスの宗教改革などは、こちらの記事にまとめてあります。

今回の講座の復習用の問題もあるので、こちらにも是非挑戦してみてくださいね!

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