宗教戦争②|17世紀の危機や三十年戦争について【世界史】

三十年戦争 解説

今回は宗教戦争解説の後編、三十年戦争について主に解説していきたいと思います。

前回のユグノー戦争についての解説はこちらの記事から読むことができます。

Homura
Homura

この講座の難易度は★★★★☆です。

背景

17世紀の危機

16世紀のヨーロッパはルネサンス・大航海時代に入り、科学革命・新大陸の発見・価格革命などによって大きく発展します。

しかし、17世紀のヨーロッパには以下のような様々な経済・政治・社会問題が発生していたため、17世紀の危機と呼ばれる状況に直面しています。

  • アメリカからの銀の流入減
    →経済の停滞
  • 小氷期*¹の到来による気温低下
    →凶作・飢饉
  • ペスト*²の流行
  • 魔女狩り*³
  • 三十年戦争やピューリタン革命などの政治的動乱

*¹今でこそ地球温暖化が問題となっていますが、地球というのは太陽活動をはじめとした様々な要因によって温暖期と氷河期がある程度交互に来ています。
17世紀は太陽活動の低下や火山活動の活発化によって小氷期(しょうひょうき)が訪れ、凶作や飢饉などの問題の原因となりました。

*²ペスト…ペスト菌が原因となって発症する感染症です。
ペスト菌はネズミやイヌ・ネコに寄生するノミを媒介として人間に感染し、39℃以上の高熱や頭痛などの症状を引き起こし、治療が行われなかった場合の死亡率は60%~90%と非常に高いことが特徴です。
感染経路や症状でいくつかの分類があり、敗血症の症状を引き起こすペストの場合は、皮膚が出血斑で黒ずむため、こく病とも呼ばれます。

ペストを治療する医師
ペストを治療する医者は自らの感染防止のためにこのようなマスクをつけていました。
このマスクの先端には予防に効果的とされる香料が入れられていました。

*³魔女狩り…古代から悪魔と契約し、超自然的な力で人に災いをなす魔女の存在は信じられてきました。
魔女狩りはジャンヌ=ダルクなどの例から分かるようにしばしば政治的に利用され、多くの女性(一部男性も)が告発によって魔女とされ、迫害されました。
17世紀には上記のような様々な問題が発生していたため、社会不安の増大に伴い、魔女狩りも活発化します。

魔女狩り

カトリックとプロテスタントの対立

1517年のルターの『九十五カ条の論題』から始まった宗教改革は1555年のアウクスブルクの宗教和議が一つの区切りとなります。

しかし、アウクスブルクの宗教和議では個人の信仰の自由が認められず、ルター派以外のカルヴァン派などは認められませんでした。

そのため、1608年にはプロテスタント陣営は新教同盟を、1609年にカトリック陣営は旧教連盟を結成するなど、カトリックとプロテスタントの対立はその後も続いていたのです。

ドイツ宗教改革の流れについてはこちらの記事に詳しくまとめてありますので、忘れてしまった方はおさらいしておきましょう。

ハプスブルク家とブルボン家の対立

当時、フランスはアンリ4世以降からブルボン家が王朝として成立していました。

一方で、スペインや神聖ローマ帝国のハプスブルク家の包囲政策によって、フランスはハプスブルク家が王朝の国々に囲まれているという状況でした。

フランスは国際的地位を確立するために、ハプスブルク家の包囲の打破を狙っていたわけです。

三十年戦争の発端

1617年、ハプスブルク家のフェルディナント(後の神聖ローマ皇帝フェルディナント2世)がボヘミア*¹王に即位します。

フェルディナントは幼少からイエズス会の教育を受けていて、熱心なカトリック教徒だったため、プロテスタントを迫害しました。

しかし、オーストリアの属領ベーメン(ボヘミア)ではプロテスタントの領主が多かったため、フェルディナントが王であることに反対している貴族も多数います。

そんな中、1618年、ベーメンの貴族が王の使者を窓から投げ落とすプラハ窓外投擲そうがいとうてき事件が発生します。

この事件はプラハの反乱とフェルディナントに伝えられ、鎮圧のための軍が派遣されます。

これが三十年戦争の発端となったのです。


*¹ボヘミア…現在のチェコにあった王国で、神聖ローマ帝国の領邦の一つでした。

三十年戦争の経過

三十年戦争は大きく分けて次の4つの経過を辿っていきます。

  • ベーメン・ファルツ戦争(1618~23)
  • デンマーク戦争(1625~29)
  • スウェーデン戦争(1630~35)
  • フランス=スウェーデン戦争(1635~48)

以下ではそれぞれの戦争の大雑把な流れを見ていきましょう!

ベーメン・ファルツ戦争

先ほど解説したベーメンでのプラハ窓外投擲事件が原因となって起こったベーメンの反乱が原因となって起こったのがこのベーメン・ファルツ戦争です。

ベーメンの貴族達はファルツ選帝侯フリードリヒ5世を新国王として擁立し、フェルディナント2世の帝国軍や旧教連盟と戦います。

しかし、ベーメンの貴族・傭兵部隊は1620年の白山はくざんの戦い*¹で神聖ローマ帝国軍に大敗し、1623年にはフェルディナント2世や旧教連盟の勝利で戦争が終わり、ボヘミアはハプスブルク家の支配下に置かれます。

これに脅威を感じたフランスのルイ13世の宰相リシュリューは1624年にハーグ同盟(対ハプスブルク同盟)をイングランド・オランダ・スウェーデン・デンマークを結成します。


*¹この頃から歩兵の武器として槍に加えて新たにマスケット銃が登場し、戦場の主力となりました。

デンマーク戦争

ベーメン・ファルツ戦争では中立を守っていたデンマークでしたが、デンマーク王のクリスチャン4世にはドイツやバルト海などへの海外進出の野望がありました。

そのため、1625年にデンマークはハーグ条約に基づいてイギリスやオランダの支援を受け、新教の保護を名目に三十年戦争へ介入します。

しかし、ヴァレンシュタインをはじめとした傭兵部隊の活躍もあり、クリスチャン4世の軍は撃退され、デンマークの北欧での影響力は衰退することになります。

このデンマーク戦争から、三十年戦争は宗教戦争だけでなく、ハプスブルク家とブルボン家の対立をはじめとした国際紛争としての側面が強くなってきたわけです。

スウェーデン戦争

デンマーク戦争におけるデンマークの敗北によって、神聖ローマ帝国の北上を懸念したスウェーデン王グスタフ=アドルフは、フランスから援助を受け、新教の保護を名目に1630年に三十年戦争への参戦を決定します。

これに対して、神聖ローマ帝国側もデンマーク戦争で活躍したヴァレンシュタインを再び登用して対抗します。

そして1632年のリュッツェンの戦いでグスタフの軍がヴァレンシュタイン率いる帝国軍に勝利しましたが、グスタフ自身はこの戦いで戦死し、ヴァレンシュタインも後に皇帝の刺客に暗殺されたことで膠着状態となってしまったのです。

フランス=スウェーデン戦争

フランスは本来旧教が優勢の国家でしたが、ハプスブルク家の包囲を打破するため、1635年に新教側の保護を名目に、遂に三十年戦争への直接参戦を決定します。

このフランスの参戦にスウェーデンも同調し、スペイン軍や帝国軍と戦うことになったのです。

1640年にカタルーニャの反乱*¹やポルトガルの反乱*²が起こったこともあり、次第にハプスブルク陣営は劣勢になっていきます。

ちなみに、フランスではこの戦争中にルイ13世とリシュリューが相次いで亡くなり、ルイ14世マザランに代替わりしています。


*¹カタルーニャとはスペイン北東部のことで、現在ではサッカークラブやサグラダ・ファミリアでも有名なバルセロナがある都市です。
この反乱の主体となったのは農民で、原因は三十年戦争の戦費調達のためにスペイン軍が行った圧政でした。

*²この反乱の結果、同年1640年にポルトガルはスペインから独立しました。

ウェストファリア条約

長らく続いた三十年戦争は1648年に結ばれたウェストファリア条約によって終結します。

ウェストファリア条約には三十年戦争に関わった神聖ローマ皇帝や領邦君主・フランス・スペイン・デンマーク・スウェーデン・オランダなどの国々が参加し、近代国際会議の先駆けとなります。

ウェストファリア条約の主な内容は以下の6つでした。

  1. アウクスブルクの宗教和議の再確認&カルヴァン派も承認
    →宗教戦争の終結
  2. 神聖ローマ帝国内の領邦君主の独立
    →神聖ローマ帝国の有名無実化
    →主権国家体制の確立
  3. スイス・オランダの独立を正式承認
  4. フランスはアルザス地方をはじめとした領土を獲得
    →ハプスブルク家に対するブルボン家の優位が確立
  5. スウェーデンは西ポンメルンなどの領土を獲得
  6. ブランデンブルクは東ポンメルンなどの領土を獲得

ただし、この条約に関して注意すべき点が2つあります。

  • この条約締結後もフランスとスペインの戦争は継続した
  • イギリスはこの条約に参加していない

ウェストファリア条約の締結後もフランスとスペインの戦争は継続し、1659年のピレネー条約の締結によってフランスの勝利で戦争は終わります。

また、イギリスは1642年から始まったピューリタン革命の最中だったため、この条約には参加していません。

三十年戦争による被害

三十年戦争の主戦場となったドイツはひどく荒廃し、人口も激減してしまいます。

これは戦争の主力となったのが傭兵であり、彼らの戦費を賄うために略奪行為などが横行していたことが大きな原因でした。

最終的に三十年戦争の死者は、数百万人にも上ると言われていて、ヨーロッパの歴史の中でも非常に多くの死者を出した戦争の一つとなってしまったのです。

まとめ

それでは、三十年戦争について年表でまとめていきましょう!

1555年アウクスブルクの宗教和議
1608年新教同盟成立
1609年旧教連盟成立
1617年後の神聖ローマ皇帝フェルディナント2世が
ボヘミア王に即位
1618年プラハ窓外投擲事件
→三十年戦争の始まり
ベーメン・ファルツ戦争(~23)
1620年白山の戦い
→神聖ローマ帝国軍の大勝
1623年リシュリューの主導でハーグ同盟成立
→対ハプスブルク同盟
1625年デンマーク戦争(~29)
→国際紛争としての側面が強くなる
1630年スウェーデン戦争(~35)
1632年リュッツェンの戦い
→スウェーデン側が勝利
→グスタフ=アドルフは戦死
1635年フランス=スウェーデン戦争
→フランスの参戦
1640年カタルーニャの反乱
ポルトガルの反乱
→同年にスペインから独立
ピューリタン革命(~60)
1648年ウェストファリア条約
→三十年戦争の終結
→カルヴァン派の承認
→神聖ローマ帝国の有名無実化
→スイス・オランダの独立
→ブルボン家の優位が確立
1659年ピレネー条約
→フランスとスペインの戦争が終結
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