今回の世界史は、前回までやったナポレオン戦争の続きからやっていきたいと思います。
ナポレオンについてはこちらの記事でまとめてあるので、見ていない方はこちらの記事も読んでみてください。
それでは、ナポレオン戦争後にヨーロッパに成立した国際体制であるウィーン体制とはどんな体制だったのか、そしてどのようにして崩壊していったのか、早速見ていきましょう!
この講座の難易度は★★★★☆です。
ウィーン体制の確立
今回はかなりの長丁場になってしまったので、かなり細かく内容を分けました。
分けて読み進める際の指標にしてくださいね。
ウィーン会議
1789年のバスティーユ牢獄襲撃からフランス革命が始まり、革命の中フランスの政権を握ったナポレオンは、ヨーロッパの覇権を目指して対外戦争を積極的に行いました(ナポレオン戦争)。
このナポレオン戦争で大きく混乱したヨーロッパ情勢は、1813年のライプツィヒの戦い(諸国民戦争)でナポレオンが大敗し、翌1814年にナポレオンが皇帝を退位してエルバ島へ流されたことで、一旦落ち着くことになります。
この混乱した国際秩序を再建するために、オーストリア外相のメッテルニヒが主導して、オスマン帝国を除く全ヨーロッパ諸国*¹がオーストリアの首都ウィーンに集まり、話し合いが行われることになったのです。
これが俗に言うウィーン会議(1814年~1815年)です。
*¹ただし、このウィーン会議で主導権を握っていたのは、オーストリア・イギリス・ロシア・プロイセンの4大国でした。
会議は踊る、されど進まず
ウィーン会議の基本理念は「大国間の勢力均衡」とフランス外相のタレーランが主張した「正統主義」でした。
正統主義における正統とは、フランス革命前の体制を意味していて、革命で起こった自由主義・国民主義運動を否定し、旧体制の復活を目指す理念です。
しかし、ウィーン会議では各国の利害調整が難航し、連日宴会や舞踏会ばかりが行われていたため、「会議は踊る、されど進まず」と風刺されるように中々進展しませんでした。
ウィーン体制の成立
「会議は踊る、されど進まず」と言われたウィーン会議でしたが、ある一つの出来事をきっかけに大きく進展することになります。
それはナポレオンがエルバ島を脱出して皇帝に復帰したことです。
これを受けて危機感を抱いた各国は急いで合意を形成するために妥協したことで、ウィーン議定書が調印され、自由主義・国民主義運動を否定した保守的な国際政治体制であるウィーン体制が成立します。
このウィーン体制の成立によって、フランスではブルボン朝が復活(復古王政)、オーストリア皇帝を盟主としたドイツ連邦*¹の成立、スイスが永世中立国*²として承認されたりしました。
*¹ドイツ連邦と言っていますが、オーストリアやプロイセンを中心として発足した、ライン同盟によって解体された旧神聖ローマ帝国の国々の国家連合です。
*²普通の中立国とは違い、永世中立国と呼ばれるためには周辺諸国の承認が必要です。
現在承認されている永世中立国の例としては、スイスやオーストリア、トルクメニスタンなどがあります。
ウィーン体制の維持と強化
ウィーン体制の維持や強化を目的として、以下のような同盟が結ばれました。
これらの同盟を基盤として、国際協調と現状維持、自由主義・国民主義運動の抑圧が行われていったわけです。
神聖同盟
ウィーン体制が成立した後、1815年9月にロシア皇帝のアレクサンドル1世の提唱によって、ロシア・オーストリア・プロイセンの君主間で神聖同盟が結ばれました。
この同盟は、キリスト教の正義や友愛の精神に基づいて平和を維持することを約束したものであり、後にイギリス・ローマ教皇・オスマン帝国を除いた全ヨーロッパ諸国の君主が参加しました。
四国同盟と五国同盟
1815年11月にウィーン会議を主導したオーストリア外相のメッテルニヒの提唱によって、オーストリア・プロイセン・イギリス・ロシアの間で四国同盟が成立しました。
この同盟は、ウィーン体制を補完する側面があり、1818年11月にはフランスが参加して五国同盟へと発展します。
ウィーン体制に対する抵抗と鎮圧
ウィーン体制で抑圧されていた中でも、自由主義・国民主義運動は起こっています。
しかし、これらの抵抗はその都度各国で鎮圧されていったのです。
ブルシェンシャフトの運動
ブルシェンシャフトとは、1815年にナポレオン戦争に参加した学生を中心としてドイツで結成された学生組合(同盟)のことです。
このブルシェンシャフトが1817年にヴァルトブルク城*¹で宗教改革300年祭*²を開催した際に、一部の学生が反ドイツ的な書物などを焚書するという出来事が起こり、メッテルニヒは警戒を強めます。
そんな中、1819年にブルシェンシャフトに批判的な意見を雑誌で述べていた作家のコツェブーが過激派の学生に暗殺されるという事件が起きます。
この事件を受けて、メッテルニヒはドイツ連邦の主要な代表をカールスバート*³に集めて、自由主義・国民主義運動を弾圧する内容のカールスバート決議を出し、ブルシェンシャフトの全面的な弾圧に乗り出しました。
*¹ルターが聖書のドイツ語訳を完成させた場所であり、ルターゆかりの地でもある。
*²ルターが九十五カ条の論題を発表した1517年から300年記念という意味です。
*³現在のチェコにある温泉で有名な地です。
スペイン立憲革命
ナポレオン戦争の期間、ナポレオンは兄のジョゼフをスペイン国王ホセ1世として即位させましたが、1808年からはスペイン反乱(スペイン独立戦争)が起きます。
その戦争の最中に、カディス・コルテス*¹は1812年にカディス憲法を制定します。
カディス憲法は国民主権が基本理念とされた憲法でしたが、ナポレオン戦争の終結でホセ1世が退位した後に復位したブルボン朝のフェルナンド7世はこの憲法を拒絶します。
このことが自由主義者達の反発を招き、1820年に軍の兵士を中心としてカディス憲法の復活を求める反乱が起きてしまいます。
これがスペイン立憲革命です。
この反乱を収拾するために、フェルナンド7世はカディス憲法の復活を承認し、自由主義の政府が誕生します。
しかし、フェルナンド7世が神聖同盟に助けを求め、同じブルボン朝の復古王政が敷かれていたフランスが軍隊を派遣し、スペインに干渉します。
この結果、フランス軍に自由主義政府は打倒されてしまい、革命は挫折してしまうことになったのです。
*¹カディス・コルテスのカディスはスペイン南西部の地名を指し、コルテスは身分制の議会です。
つまり、カディス・コルテスは、スペイン反乱でカディスに避難していた議会という意味です。
カルボナリの蜂起
カルボナリとは、日本語で炭焼*¹を意味していて、世界史の教科書では炭焼党と訳されていることも多い言葉です。
しかし、世界史で出てくるカルボナリは、本当に炭焼をしている人々ではなく、イタリアを中心に拡大して、自由主義と国民主義運動を推進した秘密結社です。
カルボナリは自らを炭焼職人に見立てて、秘密の集会所をバラッカ(炭焼小屋・山小屋)、政府や与党などはルーポ(狼)といったような仲間内だけで通じる隠語を使っています。
このカルボナリが蜂起するきっかけとなったのは、1820年に起こったスペイン立憲革命でした。
スペイン立憲革命でカディス憲法を承認したという報せを受けたカルボナリもこれに触発され、ナポリで蜂起してカディス憲法と同様の内容を制定するように、国王のフェルディナンド4世*²に要求します。
フェルディナンド4世はこれを承認して、憲法が制定されたのです。
また、サルデーニャ王国のピエモンテ州のトリノでも同じように革命が起き、憲法の制定に成功します。
しかし、この出来事に北イタリアを領有していたオーストリアは反発し、メッテルニヒはこの反乱の鎮圧のためにオーストリア軍を出兵します。
結果、カルボナリを中心とした革命軍は鎮圧され、カルボナリは弱体化し、本部をナポリからフランスのパリへと移すことになります。
*¹炭焼は、木を燃やして炭を作ることで、『鬼滅の刃』の炭治郎の実家のお仕事と同じですね。
*²フェルディナンド4世はナポリ王としての呼称であり、シチリア王としてはフェルディナンド3世、両シチリア国王としてはフェルディナンド1世と呼ばれました。
ちなみに、これは完全に余談ですが、彼は女性の手フェチだったようです。
まるで『ジョジョの奇妙な冒険』に出てくるあの人みたいと思ったのは私だけでしょうか。
デカブリストの乱
ナポレオン戦争に参加したロシア軍の貴族将校達は、戦争でヨーロッパへ従軍する過程でヨーロッパの自由主義・国民主義の思想に触れて衝撃を受けます。
彼らは自由主義・国民主義の思想に傾倒していき、祖国の専制政治に対する不満が次第に高まっていったわけです。
そして1825年に皇帝のアレクサンドル1世が急逝したことで、次弟のコンスタンチン大公が帝位を継承するかと思われていましたが、彼は帝位継承権を放棄*¹します。
そこで、さらに次の弟のニコライ大公(後のニコライ1世)に帝位継承権が委譲されることになりましたが、貴族将校達はこれを不服とし、1825年12月に反乱を起こします。
この反乱が起きたのが12月*²であったことから、この事件はデカブリスト(十二月党員)の乱と呼ばれることになります。
しかし、この反乱は政府軍にすぐさま鎮圧されてしまい、反乱の首謀者は絞首刑、関係者とされた500人以上も流刑となってしまいます。
この時に、流刑となった夫を追った妻達が何人もいましたが、彼女たちの姿は後にロシアで多くの人々から称えられたことは有名な話です。
*¹帝位継承権を放棄したのは、ポーランドの貴族女性ヨアンナとの貴賤結婚が理由です。
*²ロシア語で12月はデカーブリと言います。
ウィーン体制の動揺
先に紹介したように反乱が起こっても鎮圧できたケースがあった一方で、ウィーン体制の秩序を揺るがすような出来事が数多く起こっています。
ラテンアメリカ諸国の独立
ベネズエラのシモン・ボリバルやアルゼンチンのサン・マルティンなどのクリオーリョ*¹が中心となって1810年代から1820年代にかけてラテンアメリカの植民地で独立運動が盛んに行われています。
この独立運動によって、ベネズエラ・アルゼンチン・メキシコ・ブラジルなどを始めとした多くのラテンアメリカ諸国が独立します。
これに対して当時のアメリカ大統領のモンローは、1823年にアメリカ大陸とヨーロッパの相互不干渉(孤立主義)を主張するモンロー宣言(モンロー教書)を発表したのです。
*¹クリオーリョ…植民地生まれの白人を意味する言葉です。
ギリシアの独立
独立運動の機運が高まったのはオスマン帝国統治下のギリシアも同じでした。
1821年にギリシアは独立宣言をし、オスマン帝国軍との戦闘を開始したことでギリシア独立戦争が始まります。
戦闘は数年間に渡り継続されましたが、1829年のアドリアノープル条約、1830年のロンドン議定書、1832年のコンスタンティノープル条約を経てギリシアはオスマン帝国からの独立を果たします。
七月革命
ナポレオンの失脚後にブルボン朝からルイ18世が即位してからの復古王政は、革命前の旧制度そのものともいえる反動政治が敷かれています。
それはルイ18世の後を継いだ弟のシャルル10世も変わらず、更に反動政治を強化していったのです。
特に旧亡命貴族に対しての補償を国庫負担で行うという法律を制定したことは市民階級の不満を高めました。
そして追い討ちをかけるように議会を解散させる勅令を出したことで、パリ民衆の怒りは爆発して武装蜂起します。
この事件が起きたのが1830年の7月であったことから、この出来事を七月革命と言います。
この事件によって、シャルル10世は国外へ亡命し、ルイ・フィリップが「フランス国民の王」として擁立され、絶対王政から立憲君主制へと移行したのです(七月王政)。
七月革命による各国への影響
七月革命の成功は、各国の自由主義・国民主義運動を更に刺激して次のような出来事を引き起こします。
- ベルギーがオランダから独立
- ポーランドで独立運動が発生→鎮圧
- ドイツで反乱が発生→鎮圧
- イタリアで反乱が発生→鎮圧
このようにウィーン体制が次第に揺らいでいっていることが分かると思います。
ウィーン体制の崩壊
先に紹介してきた数多くの出来事で揺らいできたウィーン体制も、1848年から起きた諸々の革命によってついに崩壊することになります。
フランス二月革命
七月王政で即位したルイ・フィリップは責任内閣制*¹を採用し、フランスに産業革命をもたらします。
しかし、選挙権は富裕層に限られる制限選挙で、首相のギゾーが「選挙権が欲しければ金持ちになりたまえ」と語るように、普通選挙には反対の立場を取っていたため、選挙権を持たない市民層の不満は溜まっていきました。
そのため、こうした不満のはけ口として、改革宴会と呼ばれる宴会の形を取った政治集会が頻繁に開催されていたのです。
しかし、ギゾー内閣は改革宴会を弾圧したため、パリ市民の怒りは頂点に達します。
ルイ・フィリップはギゾーを罷免して事態の収拾を図りましたが、パリ市民の怒りはおさまらず、遂に武装蜂起をし、1848年2月にフランス二月革命が始まります。
この事件を受けてルイ・フィリップは失脚し、その後共和制の臨時政府が樹立されて第二共和政が始まったのです。
*¹責任内閣制…国民に対して政治上の責任を負う内閣制度で、議院内閣制とも言う。
ウィーン三月革命とベルリン三月革命
フランス二月革命成功の報せは各国にも伝わり、革命の波は更に広がっていきます。
オーストリアのウィーンでも3月には市民や学生が中心となってメッテルニヒの辞任を要求する暴動が起こります。
この暴動によって、ウィーン体制の成立・維持に大きく関わってきたメッテルニヒが辞任することになります。
また、ウィーン革命後のベルリンでも3月に暴動が起きて自由主義者中心の内閣が組閣されます。
この出来事は共に1848年3月に起きたため、それぞれウィーン三月革命とベルリン三月革命と言われています。
諸国民の春
フランス二月革命やウィーン三月革命が起こった1848年の自由主義・国民主義運動の機運は、フランスやオーストリアだけには止まりませんでした。
例えば、イタリア・ボヘミア・ハンガリーをはじめとしてその他数多くの地域でも自由主義・国民主義運動が高まり、革命が起こった地域も中にはあります。
この1848年から革命が頻発した出来事を「諸国民の春」と言い、これによって揺らいでいたウィーン体制は完全に崩壊することになりました。
まとめ
それでは、今回の講座で扱った出来事を最後に年表で確認していきましょう!
今回はヨーロッパの各地で反乱が起こったため、関係する国名を年表に加えています。
1814年~ | ウィーン会議 →ウィーン体制確立 | 墺 |
1815年9月 | 神聖同盟 →ほぼ全ての欧州諸国 | |
1815年11月 | 四国同盟 →墺・普・英・露 | |
1817年 | ブルシェンシャフトの蜂起 →メッテルニヒが鎮圧 | 独 |
1818年11月 | 五国同盟 →四国同盟+仏 | |
1820年 | スペイン立憲革命 →フランス軍が鎮圧 | 西 |
カルボナリの蜂起 →メッテルニヒが鎮圧 | 伊 | |
1821年~ | ギリシア独立戦争 →オスマン帝国から独立 | 希 |
1823年 | モンロー宣言 (モンロー教書) | |
1825年12月 | デカブリストの乱 →ロシア政府軍が鎮圧 | 露 |
1829年 | アドリアノープル条約 | |
1830年 | ロンドン議定書 | |
1830年7月 | 七月革命 →七月王政 | 仏 |
1832年 | コンスタンティノープル条約 | |
1848年~ | 諸国民の春 →各地で革命が頻発 →ウィーン体制崩壊 | |
1848年2月 | フランス二月革命 →第二共和政 | 仏 |
1848年3月 | ウィーン三月革命 →メッテルニヒが辞任 | 墺 |
ベルリン三月革命 →自由主義内閣成立 | 独 |
露…ロシア 独…ドイツ 西…スペイン
伊…イタリア 希…ギリシア 仏…フランス
今回の講座で学んだ内容を身に付けるために是非こちらの問題にも挑戦してみてくださいね。